番外編 ありふれた一日
ある無愛想な警備隊長のはなし。
朝、目が覚める。
窓の向こうから、鳥のさえずりが聞こえていた。
ローグは寝台の上で身体を起こすと、傍らに置いた時計へ目を向けた。
いつもと同じ時刻だ。
(……平和だ)
かつては、朝を迎えられる保証などなかった。
標的の行動を調べ、逃走経路を確保し、振り返りながら夜を明かしていた頃とは違う。
制服に袖を通し、胸元の徽章に触れて階段を下りる。
香ばしいパンの匂い。
血色が戻った母と、食卓につく弟妹。
かつて薬代と食費に追われ、弟妹の泣き声と母の咳き込む音だけが響いていた家には、いま温かいスープがある。
「……行ってきます」
「気をつけてね、ローグ」
温かいスープを飲み干し、ローグは家を出た。
◇
「隊長! おはようございます!」
警備隊の詰所に入ると、若い隊員たちが姿勢を正した。
昨夜の報告書に目を通す。大きな事件はない。
(……ずいぶん、様になってきたな)
発足当初は何もかもがうまくいかなかった。
元暗殺者の自分と、素人同然の若者たち。
隊員はローグの殺気に怯え、住民も強面な警備隊を警戒した。トラブルが起きれば力技で強引に抑え込む悪循環。
『恐怖で押さえつけても、街は守れないよ』
いつだったか、カイルに言われた言葉。
失敗を重ねながら、少しずつ「街を守るための術」を覚えていったのだ。
巡回に出ると、市場で商人が荷下ろしの順番を巡って言い争っていた。
ローグは間に入り、両者の言い分を聞いて時間を調整する。騒ぎはすぐに収まった。
「……隊長なら、もっと力ずくで黙らせることもできたんじゃないですか?」
若い隊員の問いに、ローグは足を止める。
「力で黙らせれば不満が残る。恐怖で抑え込むのが俺たちの仕事じゃない。明日もあいつらが、ここで商売できるようにすることだ」
ハッとする隊員の背を見送りながら、腰の装備に触れる。
かつては相手の息の根を止めるためだけに振るっていた力を、今は使い道を選んで使っている。
◇
夕方、教会の前でミナとリュートを迎えた。
リュートが「色んなことができると、将来いろんな仕事を選べるんだって!」と興奮気味に笑う。
選べる未来。かつての自分が持てなかったものを、この子たちは持っている。
帰り道、ミナが照れくさそうに折りたたまれた紙を差し出してきた。
「あのね……兄ちゃんの名前、書いてみたの」
受け取った紙を開く。
そこには、少し曲がった不揃いな文字で『ローグ』と書かれていた。
「…………」
かつては誰にも知られてはならず、偽名で隠し続けてきた自分の名だ。
それが今、妹の手で丁寧に練習されている。
「……上手だ。ありがとう、ミナ」
二人の手を引き、夕暮れの街を歩く。
商店の明かり、帰路につく人々、子どもたちの笑い声。
かつて奪う側だった自分が、いまはこの手で、この当たり前の日常を守っている。
◇
夜、弟妹と母が眠りについた後、自室で制服を静かに畳む。
胸元の徽章が、月明かりを受けて微かに光っていた。
奪った命は戻らない。過去も消えない。
自分が犯してきた罪が、この穏やかな日々で清算されることなど絶対にないのだと、ローグは知っている。
だからこそ——もう二度と誰かを殺すためではなく、家族が帰り、明日もこの街が続いていくために、この力を使う。
(今年は、いい秋になりそうだ)
灯りを消すと、穏やかな秋の夜が静かに更けていった。




