番外編 焼きたてのあんぱんと知らない記憶
温泉から戻って数日後。
査察の騒ぎも落ち着き、ようやく日常を取り戻したパン工房の片隅で、カイルは焼き上がったばかりのあんぱんを睨んでいた。
「うーん……」
指で押してみると、むにっと柔らかい感触が返ってくる。
「……悪くないんだけどなぁ」
以前とは比べものにならない。
ルージュ豆の餡も改良を重ね、ノルデンでも食べる人が増えた。
それでも——何かが違う。
「もうちょっと、こう……ふっくらしないかな」
「まだやってんのかよ」
「うわっ!?」
振り返ると、いつの間にかジークが立っていた。
「ジークか。驚かせないでよ」
「こっちの台詞だ。カイルがまたパンと睨めっこしてるって聞いたから来てみりゃ……」
「『また』って何さ」
「またはまただろ」
ジークは呆れながら、籠からあんぱんをひとつ取った。
「食っていいか?」
「もう取ってるじゃないか」
一口かじる。
「……うめえじゃん」
「美味しいだけじゃ駄目なんだよ」
「面倒くせえ領主だな、カイルは」
「うるさいな……。もっとふっくらさせたいんだ。生地が柔らかくて、口に入れたら——」
カイルは両手を動かす。
「こう……ふわっ、と」
「分かんねえよ」
「僕も上手く説明できないから困ってるんだよ!」
「知らねえよ!」
しばらく二人であんぱんを睨む。
そのとき。
「……そういや」
ジークが呟いた。
「ルージュクッキーって、ギヤミルクと一緒に売ってんだよな?」
「うん。口の中の水分を持っていかれるから、セットにしたら結構評判がよくて——」
「だったらさ」
ジークは食べかけのパンを眺めた。
「最初から、こいつにギヤミルク混ぜたらどうなんだ?」
「…………ジーク」
「なんだよ」
「それだ」
「え?」
「それだよ!!」
「うおっ!?」
カイルが勢いよく立ち上がった。
「仕込み水の一部をギヤミルクに置き換えるんだ! 乳脂肪のコクも加わるし、風味も変わるかもしれない!」
「お、おう」
「試そう!」
「今から!?」
「今から!」
「俺、食いに来ただけなんだけど!?」
◇
さっそく試作が始まった。
もっとも、ギヤミルクを加えれば必ず柔らかくなる、というわけではない。
最初の試作品は、思ったほど膨らまなかった。
「……あれ?」
カイルは焼き上がったパンを指で押した。
ずっしりとした感触が返ってくる。
「なんだか、前より重くなってないか?」
「水と同じ分量で入れましたからね。生地の具合も少し変わっていましたし……」
職人の一人が首をひねる。
「ギヤミルクの量を減らしてみませんか? まずは仕込み水の三割くらいから」
「なるほど……!」
カイルは顔を上げた。
「いいね。それでやってみよう!」
職人たちは早速、分量を測り直し始めた。
水とギヤミルクの割合を変え、捏ね加減や発酵時間を調整する。
焼き上がりを確かめ、問題があれば次の試作に反映する。
そうして、何度も試作を重ねていった。
(……みんな、頼もしくなったな)
カイルは作業する職人たちを眺めた。
少し前までは、こちらが指示を出すのを待っていた。
けれど今は違う。
自分たちで考え、試し、改善しようとしている。
パン工房も、少しずつ変わっているのだ。
そして数日後。
「……できた」
焼き上がったばかりのあんぱんを、カイルがそっと割る。
ふわりと湯気が立ち上り、甘い香りが広がった。
「おお……!」
きめ細かく、柔らかな生地。
ルージュ餡の甘さに、ギヤミルクのまろやかなコクが重なっている。
カイルはひと口食べ、思わず頬を緩めた。
「……うん。これだ!」
もちろん、前世で食べたあんぱんとまったく同じではない。
けれど、これはこれで美味しい。
何より、ノルデンで採れる材料を使い、職人たちが自分の手で作り上げたものだ。
「ジーク! 食べてみて!」
「言われなくても食う」
いつの間にか試食係のようになっていたジークが、差し出されたあんぱんを受け取る。
ぱくり。
「…………」
「どう?」
「……うまい。でも」
ジークの動きが止まった。
「ジーク?」
柔らかな生地、甘い餡。
鼻に抜ける、温かなミルクの香り。
その瞬間だった。
——ふっ、と。
見覚えのない光景が、脳裏をかすめた。
湯気の立つカップ。
焼きたてのパン。
誰かの手。
『——もう少し、牛乳を……』
聞き覚えのないはずの声。
次いで、包丁を強く握りしめる自分の手が見えた。
窓の向こうには、奇妙な建物が立ち並んでいる。
ノルデンによく似ているようで、まるで違う街並み。
見たことなど、ないはずなのに。
(……なんだ、これ)
胸の奥が、ざわりと揺れた。
「……ジーク?」
「…………っ」
カイルの声に、ジークはハッと顔を上げた。
次の瞬間には、すべてが消えていた。
あの街も、声も、包丁を握る手も。
残っているのは、手の中のあんぱんだけ。
「……いや」
ジークは小さく首を振った。
「なんでもねえ」
「……?」
「それより」
もう一口、大きくかじる。
「これ、もう一個くれ」
「気に入ってるじゃないか」
「うるせえ!」
ジークはぶっきらぼうに答え、差し出された二つ目のあんぱんを受け取った。
その温かさを、確かめるように。
◇
工房を出ると、秋の風が頬を撫でた。
ジークは通りを歩きながら、ふと立ち止まった。
(……牛乳?)
先ほど脳裏に浮かんだ、奇妙な言葉。
ギヤミルクではない。
けれど、なぜだろう。
その響きを、ずっと昔から知っているような気がした。
(……なんなんだよ、いったい)
答えは出ない。
ただ、手に残るパンの温もりだけが、妙にはっきりと感じられた。
ジークは小さく息を吐き、再び歩き始めた。




