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スキル『魔石生成』で追放された僕、国から役に立たないと切り捨てられた辺境で「あんぱん」を作ります ~貧困領地が大発展していくまで~  作者: きいろい なつ
カイル(是清)の真価

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番外編 査察官の小さな秘密

意外なあの人の一面。査察中のお話。


 「ふぅ……」


 思わず、吐息が漏れました。

 肩まで温かい湯に浸かると、凝り固まっていた身体がゆっくりとほぐれていきます。

 ……なんとも、心地よい。

 ノルデンに滞在して、幾日が過ぎたでしょうか。

 朝から晩まで帳簿と向き合い、商人や職人から聞き取りを行い、ときには倉庫や工房にまで足を運ぶ。

 特別査察官として当然の仕事とはいえ、疲労がないわけではありません。

 王都では、仕事を終えても気を抜くことなど滅多にありませんでした。


 けれど、今夜ばかりは。


 「……もう少しだけ」


 誰に聞かせるでもなく呟き、私は湯船の縁に背を預けました。

 湯気の向こうでは、魔道ランプの淡い光が揺れています。

 領主館の浴場は、華美ではありません。

 それでも清潔に整えられ、湯加減も申し分ない。

 必要なものが、必要なだけ揃っている。

 ……実に合理的です。

 そんなことを考えていると。


 「……あら?」


 浴場の扉が、静かに開きました。


 「あっ、ヴェルナーさん!」


 顔を覗かせたのは、リーザ殿でした。


 「リーザ殿……」


 思わず背筋が伸びます。


 「失礼しました。すぐに上がりますので」


 「い、いえ! そんな、お気になさらないでくださいませ!」


 リーザ殿は慌てて首を振りました。


 「むしろ、お邪魔してしまったのはこちらですわ。あの……もしよろしければ、少しお話ししませんか?」


 「……私と、ですか?」


 「はい。いつもお仕事のお話ばかりですから」


 そう言って、彼女は柔らかく微笑みました。

 私は少し考えてから、頷きます。


 「……ええ。構いません」


 リーザ殿は嬉しそうに目を細め、湯船の反対側へ静かに身を沈めました。

 しばらく、湯の揺れる音だけが響きます。

 不思議なものです。

 王都であれば、誰かと二人きりになれば、まず相手の意図を考えます。

 何を聞き出そうとしているのか。

 誰の利益になる会話なのか。

 しかし、リーザ殿からは、そうした思惑が感じられませんでした。

 ただ、私と話をしたい。

 どうやら、本当にそれだけのようです。


 「……リーザ殿」


 「はい?」


 「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


 「もちろんですわ」


 私は少しだけ姿勢を正しました。


 「なぜ、カイル殿について、このノルデンまで?」


 リーザ殿が、ぱちりと瞬きをしました。


 「……え?」


 「失礼。査察とは関係のない、個人的な興味です」


 カイル殿がノルデンの領主に任じられた経緯は、すでに把握しています。

 王都から遠く離れた、貧しい辺境の地。

 将来を期待される貴族の令嬢が、好んで暮らすような土地ではなかったはずです。

 それでも彼女は、ここにいる。

 それが、少し不思議だったのです。

 リーザ殿は、しばらく湯面を見つめていました。

 やがて、小さく口を開きます。


 「……好きだったから、ですわ」


 「……はい?」


 「あの方が……カイル様が、ずっと好きだったからです」


 あまりにまっすぐな答えに、今度はこちらが瞬きをしてしまいました。

 リーザ殿は、恥ずかしそうに視線を伏せます。


 「周りの方々は、カイル様のことを変わり者だとか、落ちこぼれだとか……いろいろおっしゃっていました」


 「……そうですね」


 「でも、私には、そうは見えなかったのです」


 彼女は、ふわりと微笑みました。


 「だって、あの方……あんぱんを作るとき、本当に楽しそうなんですもの」


 「……あんぱん、ですか」


 「はい!」


 リーザ殿の声が、少し弾みます。


 「餡の甘さが足りないとか、生地が固いとか。何度も何度も試して、失敗して。それでも、次はこうしてみようって……」


 そこで彼女は、くすりと笑いました。


 「貴族のご子息が、粉だらけになってパンをこねているんですのよ? きっと、周りの方々にはおかしく見えたのでしょうね」


 「……確かに、珍しい光景ではあります」


 「でも、私には……」


 リーザ殿は、そっと胸元に手を添えました。


 「何かに夢中になって、一生懸命に取り組むカイル様が、誰よりも輝いて見えたのですわ」


 「…………」


 私は、彼女を見つめました。

 リーザ殿の頬がうっすらと赤いのは、きっと湯気だけのせいではないのでしょう。


 「だから、ノルデンへ行くと聞いたときも、迷いませんでした」


 「……将来への不安は、なかったのですか?」


 「もちろん、ありましたわ」


 彼女はあっさりと認めました。


 「私、畑仕事なんてしたこともありませんでしたし、領地の経営だって、まだまだ勉強中ですもの」


 「それでも?」


 「ええ」


 リーザ殿は、まっすぐに私を見ました。


 「カイル様が何かを始めるとき、できることなら、いちばん近くで応援していたかったのです」


 ……なるほど。

 私は静かに息を吐きました。

 彼女は、カイル殿の成功を見込んでついてきたわけではない。

 成功するかどうかも分からない頃から、彼の隣に立つことを選んだのです。


 「……素敵ですね」


 気づけば、そんな言葉が口をついていました。


 「えっ?」


 「いえ。失礼しました」


 「ふふっ。ありがとうございます」


 リーザ殿は、ますます頬を赤くして笑いました。

 ……まったく。

 これでは、どちらが年上なのか分かりませんね。

 けれど。

 たまには、こういう会話も悪くありません。

  


 ◇



 湯上がりの廊下には、涼しい夜風が流れ込んでいました。

 火照った頬に、心地よい風が触れます。


 「ヴェルナーさん、お湯加減はいかがでした?」


 「申し分ありません。おかげさまで、疲れも取れました」


 「それはよかったですわ!」


 リーザ殿と並んで廊下を歩いていると、開け放たれた窓から、小さな羽音が聞こえてきました。


 「……あら?」


 リーザ殿が、私の肩に目を向けます。


 「ヴェルナーさん、少しじっとしていてくださいませ」


 「……何でしょう?」


 「肩に、ヤンボが……」


 「……え?」


 私は、ゆっくりと首を回しました。

 そこには。

 小さな羽を震わせた、黒っぽい虫が一匹。

 私の肩に、ぴたりと止まっていました。


 「…………っ!」


 次の瞬間。


 「きゃあっ!? む、虫っ……!」


 ……声が、出てしまいました。

 それも、我ながら情けないほど高い声が。


 「ヴェルナーさん! 大丈夫ですわ!」


 「り、リーザ殿っ! そ、それを……!」


 「はい、少しお待ちくださいませ」


 リーザ殿は慌てることもなく、そっと手を伸ばしました。

 そして、虫を傷つけないように指先で受け止めると、そのまま窓の外へ逃がしてしまったのです。


 「はい。もう大丈夫ですわ」


 「…………」


 私は、しばらく言葉を失っていました。

 ……なんということでしょう。

 王都では、どれほど威圧的な貴族を前にしても、声を震わせたことなどありません。

 不正を隠そうとする役人に怒鳴られても、表情一つ変えずに帳簿を突きつけてきました。

 それなのに。

 たかが、小さな虫一匹で。


 「……この時期は、ヤンボがよく入ってくるのですわ」


 リーザ殿は何事もなかったかのように言いました。


 「灯りに寄ってくるみたいで。窓を開けていると、時々こうして……」


 「……そ、そうですか」


 私は眼鏡の位置を直しました。

 ……落ち着きなさい、ヴェルナー。

 ただの虫です。

 害があるわけでもありません。

 冷静に考えれば、恐れる理由など何一つ——。


 「でも、意外でしたわ」


 「……っ」


 リーザ殿が、悪戯っぽく微笑みました。


 「まさか、ヴェルナーさんが虫を苦手になさっているなんて」


 「…………」


 私は、小さく咳払いをしました。


 「……こほん」


 そして、声を落とします。


 「……ご、ご内密に」


 「え?」


 「今の件は、その……できれば、他言なさらないでいただけると……」


 ……情けない。

 これでは、まるで叱られるのを恐れる子供ではありませんか。

 しかし、リーザ殿は笑いませんでした。

 ただ、少しだけ目を丸くしたあと。


 「ふふっ。分かりましたわ」


 そっと、人差し指を唇に当てます。


 「二人だけの秘密ですわね」


 「…………」


 胸の奥が、ふっと軽くなりました。


 「……ありがとう、ございます」


 「どういたしまして!」


 リーザ殿は、いつものように明るく笑いました。

 ……不思議な方です。

 いいえ。

 不思議なのは、この街そのものなのかもしれません。

 


 ◇



 その夜。

 客室の窓辺に立ち、私は静かに夜空を見上げていました。

 雲の切れ間から、いくつもの星が覗いています。

 王都では、これほどゆっくり空を見上げることなど、滅多にありません。

 ……思えば、ずいぶん長い間、気を張って生きてきたものです。

 王立財務院。

 そこは、今なお男性が大半を占める世界です。

 女だからという理由だけで、意見を軽んじられることもあります。

 少しでも感情を見せれば、女は仕事に私情を挟むと言われる。

 失敗すれば、やはり女には荷が重いと言われる。

 だから私は、誰よりも正確であろうと努めました。

 数字を読み、法を学び、どんな相手にも公平であることを貫いた。

 ……それを後悔したことはありません。

 私は、自分の仕事に誇りを持っています。

 けれど。


 「……ふふ」


 先ほどの自分を思い出し、思わず小さく笑ってしまいました。

 虫一匹に、あれほど取り乱すなんて。

 もし王都の同僚に見られていたら、しばらくはからかわれていたことでしょう。

 ……いえ。

 それだけで済めば、まだよい方かもしれません。

 けれど、リーザ殿は違いました。

 私の失態を笑うでもなく、責めるでもなく。

 ただ虫を逃がし、秘密にすると約束してくれた。

 それだけのことなのに、なぜか妙に嬉しかったのです。


 窓の外へ視線を向けます。

 夜のノルデンは、静かでした。

 けれど、昼間の街には活気があります。

 商人が声を張り上げ、職人たちが工房で腕を振るい、パン屋では若い女性たちが忙しそうに働いていました。

 男も、女も。

 年若い者も、年を重ねた者も。

 それぞれが、自分の仕事に誇りを持っている。

 もちろん、この街にも問題はあります。

 貧困の傷跡は深く、すべての人が満ち足りた暮らしを送れているわけではありません。

 それでも。

 少なくとも、私が見てきた人々は、何かを始めようとしていました。

 そしてカイル殿は、相手の性別や身分よりも、その人が何をできるか、何をしたいかを見ようとしている。

 ……まだ若いというのに。

 いや、若いからこそ。なのかもしれませんね。

 私は、机の上に置かれた査察資料へ目を向けました。

 帳簿に記された数字。

 税の納付記録。

 商取引の証憑。

 私が確認すべきものは、あくまでも事実です。

 そこに私情を挟むつもりは、今もありません。

 もし不正があれば、相手がカイル殿であろうと、私は必ず指摘するでしょう。

 それが、私の仕事なのですから。

 ……けれど。


 「次に来るときは……」


 思わず、声が漏れました。

 私は少しだけ考え、窓の向こうに広がる街並みを見つめます。


 「……休暇を取って、訪れるのも悪くありませんね」


 査察官としてではなく。

 一人の旅行者として。

 あの中央広場を歩き、焼きたてのあんぱんを買って。

 リーザ殿と、仕事とは関係のない話をして。

 ……できれば、虫の少ない季節に。


 「ふふっ……」


 自分でもおかしくなって、また小さく笑ってしまいました。

 窓を閉め、机の上の資料を整えます。

 明日も、仕事があります。

 私は王立財務院の特別査察官、ヴェルナー。

 その責務を忘れるつもりはありません。

 けれど今夜くらいは、少しだけ。

 ただの一人の女性として、この街の夜を楽しんでもよいでしょう。


 「……おやすみなさい、ノルデン」


 私は、部屋の魔道ランプをそっと消しました。

 窓の向こうでは、秋の星々が静かに瞬いていました。

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