番外編 山の湯
査察終了から数日後。
ようやくノルデンの街にも、いつもの賑わいが戻りつつあった。
止められていた麦やルージュ豆の出荷が再開され、街道には久しぶりに大きな荷馬車が列をなしている。
そんな折のことだった。
「そういえばカイル様。北の山に、冬でも凍らねえ水が湧いてる場所があるぞ」
何気ないガルドの一言に、書類を繰っていたカイルの手が止まった。
「……冬でも?」
「ああ。寒い時期なんか、白い煙まで立ち上ってる」
「…………」
「カイル様?」
隣で茶を淹れていたリーザが、不思議そうに首を傾げる。
カイルは勢いよく立ち上がった。
「それ、水じゃなくてお湯じゃない!?」
「まあ……そうかもな?」
「それを先に言ってよ!」
温泉かもしれない。
前世では珍しくもなかったが、この世界へ来てから一度も目にしたことがなかった。
「……見に行こう」
「カイル様」
「調査だよ、調査!」
「査察が終わって、まだ数日ですわ」
「…………」
「お仕事ではありませんわよね?」
「……見に行くだけなら、お休みの範囲じゃないかな?」
「もうお顔がお仕事を始めていますわ」
なぜ分かるのだろう。
結局、カイルとリーザに、護衛としてローグとジークを加えた四人で、北の山へ向かうことになった。
◇
「ったく……温かい水を見るためだけに山登りかよ」
「ジーク、さっきからそればっかりだね」
「俺は風呂なら街ので十分なんだよ」
「見たら絶対考えが変わるから」
「はいはい」
そんな軽口を叩きながら山道を進むこと、およそ半刻。
森の奥深くへ足を踏み入れたところで、先頭を行くローグが足を止めた。
「……匂うな」
確かに。
湿った土と草木の匂いに混じって、わずかに鼻をつく独特な硫黄のような臭いが漂っている。
さらに奥へ進むと——。
「わぁ……」
リーザが小さく声を漏らした。
ゴツゴツとした岩場の隙間から、白い湯気が幾筋も立ち昇っていた。
湧き出した透明な湯が岩肌を伝い、自然に出来た小さな窪みに溜まっている。
「本当に温泉だ……!」
カイルは目を輝かせ、吸い寄せられるように湯へ手を伸ばした。
「あったかい……! これなら——」
「カイル」
ローグの低い制止の声。
「……分かってるよ」
カイルは苦笑して手を引っ込めた。
温かいからといって、そのまま安全に入れるとは限らない。湧出量も、季節による変動も分からない。地盤の安定性だって調べる必要がある。
「まずは温度と湧出量を調べよう。使い道を考えるのは、そのあとだ」
「おっ」
ジークがニヤリと口元を歪めた。
「成長したじゃねえか、カイル!」
「君までそれ言うの?」
楽しげな笑い声が山中に響いた。
けれど——。
「…………」
ジークだけが、ふと湯気の向こうをじっと見つめていた。
「ジーク?」
「……いや」
妙だった。
初めて来る場所のはずだ。この場所へ足を踏み入れたことなど一度もない。
それなのに。
「……なんか、懐かしいな」
「え?」
「いや……分かんねえ」
ジークは頭をガリガリと掻いた。
「こういう、湯気っつーか……熱い湯に浸かるっていうか……」
脳裏の深い場所に、何かがふっと浮かびかける。
白い湯気。濡れた石垣。身体の芯まで染み込んでくる温もり。
そして——誰かの楽しげな笑い声。
「…………」
掴もうとした瞬間、それは霧のようにかき消えた。
「……なんだ、今の」
「ジーク?」
「なんでもねえよ。ほら、温泉?だろ。 さっさと調べようぜ」
いつもの粗暴な調子で笑ってみせる。
けれど胸の奥には、言葉にできない不可思議な懐かしさだけが、ぽつりと残っていた。
◇
簡単な確認を終え、危険がないと判断すると、四人は岩場を少し整えた。
そして——。
「じゃ、俺たちは向こう行ってくるわ」
「……え?」
ジークが突然、踵を返した。
「俺も周囲の警戒に回る」
ローグまで当然のように続く。
「待って。二人とも入らないの?」
「俺らは後でいい」
「そうそう。カイル様はごゆっく——」
ローグがジークの首根っこをがっしりと掴んだ。
「行くぞ」
「おい! まだ最後まで言ってねえだろ!」
「だから連れていくんだ」
ずるずると森の奥へ引きずられていく二人。
「…………」
「…………」
残されたカイルとリーザは、ぽかんと顔を見合わせた。
ゆらゆらと揺れる白い湯気だけが、二人の間をゆっくりと漂っている。
「……ふたりとも」
「お気遣い、なのでしょうか……」
「たぶん余計なお世話も半分くらい入ってるよ」
リーザがくすりと笑った。
それから目の前の温泉を見つめ、頬をほんのり朱に染めながら、小さく囁いた。
「夫婦、ですものね。……一緒に」
「…………そうだね」
◇
あたたかな湯に身を沈めると、不思議なくらい身体から身体中の緊張が解けていった。
「…………はぁ」
「カイル様?」
「……生き返る……」
「まあ」
「なんか……全部どうでもよくなってくる……」
「それは困りますわ」
二人で顔を見合わせて笑った。
特別査察。増額された税。搬出制限。そして紙の引換券。
ここしばらく、頭を片時も離れなかった重苦しい言葉たちが、白い湯気の向こうへとしずかに溶けていくようだった。
やがてリーザが、湯面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「……怖かったですわ」
カイルが彼女へ視線を向ける。
「査察の間です。カイル様はずっと『大丈夫』と仰っていましたけれど」
「…………」
「本当は、大丈夫ではありませんでしたでしょう?」
カイルはしばらくの間、口をつぐんだ。
領主としてなら、いつでも「大丈夫だ」と言えた。
セムラにも、ジークにも、ローグにも、そして信頼してくれる領民たちにも。
けれど、今ここにいるのは——妻だけだ。
「……うん」
深く、小さく息を吐き出した。
「怖かったよ」
言葉にしてみると、呆れるほど素直に胸からこぼれ落ちた。
「もし交換に来る人が止まらなかったら。もし領主館の金庫が空になったら。僕の判断ひとつで、みんなが積み上げてきたものを全部壊してしまうかもしれないって」
リーザは途中で遮ることもなく、静かに耳を傾けている。
「ずっと……怖かったんだ」
すると湯の中で、そっと温かなぬくもりが重ねられた。
「でしたら、次からは私にも怖がらせてくださいませ」
「……え?」
「一人で大丈夫なふりをなさらないでください」
リーザはカイルの手をぎゅっと握りしめたまま、少しだけ頬を膨らませた。
「妻ですから。半分くらいは、私にも背負わせてくださいませ」
「半分も?」
「半分です」
「三割じゃ駄目?」
「駄目です」
「厳しいなぁ」
「妻ですから」
「……そっか」
今度はカイルのほうから、その手をしっかりと握り返した。
「じゃあ——次は頼るよ」
「はい」
山間を、秋の済んだ風が優しく吹き抜けていった。
湯気がゆらゆらと揺れる。
カイルはそっと目を閉じ、久しぶりに訪れた穏やかな時間に身を委ねた。
——もっとも。
「……このお湯、街まで引けないかな」
「カイル様?」
「…………」
「お休みの、はずでしたわよね?」
「……はい」
どうやら領主の頭を休ませるには、温泉の効能をもってしても、少し足りないようだった。




