第9話「女神の平穏な日常」
色づいた葉のような心地よい微風が吹き抜ける神殿の朝。
シルフィは、今日も完璧な『慈愛の風の柱』としての微笑みを浮かべながら、礼拝堂へと続く回廊を歩いていた。
いつもなら、この角を曲がったところで純白の騎士が待ち構えており、息をするように求婚してくるはずだ。
シルフィはいつものように「しません」と即答する準備をして、角を曲がった。
しかし、そこにあの無駄に洗練された騎士の姿はなかった。
「……シルフィ様。本日の護衛ですが、ユーロスの奴が流行り風邪で高熱を出しまして。代わりの者を配置しております」
「あら。あんなに頑丈そうなのに、珍しいですね」
「ええ……。何だかんだであいつも新人ですからね。周りの期待の声に応えようと必死でしたから……。溜まってた疲れが出たのでしょう」
副団長の気まずそうな報告に、シルフィは極めて流麗な女神の微笑みを保ったまま「……そうですか。しっかり休ませてあげてください」とだけ応えた。
その日の神殿は、驚くほど静かだった。
どこからともなく飛んでくる重すぎる熱視線もない。
騎士団の修練場から、木剣が不自然に粉砕される嫌な破裂音が聞こえてくることもない。
(今日は、とても平和ですね)
誰にも邪魔されない穏やかな読書。
静寂に包まれた祈りの時間。
これこそが、彼女が長年守り続けてきた平穏な日常だ。
厄介な新人の奇行に頭を悩ませる必要のない一日は、実に清々しかった。
――二日目。
朝の回廊には、今日も静かな風の音と、自身の靴音だけが響いていた。
礼拝堂での祈りを終え、大書庫に向かう。
上段にある古い文献に手を伸ばし、少し背伸びをして本を抜き取る。
ふわりと風が舞い、背後からスッと本を取ってくれる大柄な影はない。
「……静かですね」
無意識のうちに、シルフィの口からぽつりとそんな言葉が漏れていた。
一人で本を抱えて歩き出しながら、彼女はふと、自身の視線が回廊の角や窓の外の修練場を無意識に探してしまっていることに気がついた。
(……なぜ、あの子の姿を探しているのでしょうか)
シルフィは内心で小さく首を振った。
毎朝あのように極端な求婚をされ続ければ、警戒して身構えてしまうのも無理はない。単なる習慣だ。
そう結論づけ、彼女は再び本へと逃げるように視線を落とした。
――そして、三日目の午後。
シルフィは廊下ですれ違った副団長を呼び止めた。
「あの……ユーロスは、まだ治らないのですか?」
「ええ。熱は下がりつつあるのですが、まだ本調子ではないようでして。本人は『這ってでもシルフィ様の護衛に!』と暴れたのですが、サティが物理的に気絶させて寝かせております」
その報告を聞き、シルフィは少しだけ柳眉を寄せた。
あんなに頑丈そうな若者が、三日も寝込む。
「……様子を見てきます。部下の体調管理も、上司としての務めですから」
気がつけば、シルフィの足は騎士たちの居住棟へと向かっていた。
看病など侍女に任せておけばいいはずなのに、自分の目で確かめなければどこか落ち着かない。
静かに扉を開けると、簡素な部屋のベッドに、大柄な身体を丸めて横たわるユーロスの姿があった。
いつもは太陽のように爽やかで精悍な顔立ちが、今は熱のせいか少し赤く上気し、苦しげに眉根を寄せている。
(……本当に、寝込んでいるのですね)
シルフィが足音を殺してベッドサイドに近づいた、その時だった。
「……シルフィ、様……」
「っ!」
不意に呼ばれた自分の名前に、シルフィの肩がビクリと跳ねる。
起きていたのかと身構えたが、彼の瞳は固く閉じられたままだった。
「……今日の、お姿も……最高に、お美しい……です……」
熱にうなされながら紡がれた、あまりにも平和で、あまりにも彼らしい寝言。
それを聞いた瞬間、シルフィの胸の奥にあった僅かな心配は、呆れと、そして……言葉にできない奇妙な安堵感へと変わった。
「……本当に、貴方という子は」
シルフィは小さくため息をつき、ベッド脇の椅子に腰を下ろした。
そして、風の精霊にそっと呼びかけ、彼の熱く火照った額へと涼やかで心地よい微風を送り続ける。
苦しげだったユーロスの表情が、その風の優しさに触れ、みるみるうちに穏やかなものへと解けていった。
「早く、治しなさい。……神殿が静かすぎて、少し調子が狂いますから」
そう呟いてから、シルフィは自分の言葉に小さく首を傾げた。
静かな日常こそ、ずっと望んでいたはずなのに。
どうして今は、その騒がしさの不在を惜しんでいるのだろう。
答えはまだ、春風のように掴めない。
けれど恋を諦めていた女神の日常は、彼女自身もまだ気づかぬほどのゆっくりとした速度で、確実にその色を変え始めていた。




