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第10話「女神と真白き盾の誓い」

 数日間の寝込みから復帰したユーロスは、今日も朝から絶好調だった。


「おはようございます、シルフィ様! 今朝の涼やかな風すらも嫉妬するほどの麗しさ、どうか私と結婚を――」

「おはようございます。しません。病み上がりなのですから、あまり大声を出さないように」

「あなたへの愛を叫ぶのに、体調など関係ありません!」


 相変わらずの極端な求婚を極めて流麗に受け流し、シルフィは日課である神殿の見回りへと足を向ける。


 彼が不在だった三日間の“静けさ”に少し調子を狂わされはしたが、それでも彼女の彼に対する評価は「優秀な変人」の域を出ていなかった。




 しかし、その日の午後。

 シルフィが宝物庫の前の回廊を通りかかった時のことだ。


「この愚図め! これがどれほど高価な品か分かっているのか!」


 鋭い怒声が響き、シルフィは足を止めた。


 貴族の足元には、砕け散った美しい青磁の壺が転がっていた。


「も、申し訳ありません……っ!」


 少年は涙目で何度も頭を下げる。

 貴族は震える指で壺の破片を拾い上げた。


「申し訳ないで済むものか……! これは亡き父より受け継いだ品だぞ!」


 激昂した貴族が、太い杖を振り上げ、怯えてしゃがみ込む少年めがけて勢いよく振り下ろそうとした。


「いけませ――」


 シルフィが止めに入ろうと風の魔力を練り上げた、その瞬間だった。


『ガシッ!』


 鈍い音が回廊に響いた。


 少年の頭上に落ちるはずだった太い杖は、いつの間にか背後から音もなく歩み寄っていた純白の騎士――ユーロスの、厚い革手袋に覆われた大きな掌によって、微動だにしないほど完全に受け止められていた。


「な、なんだ貴様は! 離せ!」

「……お戯れが過ぎますよ、閣下」


 ユーロスは杖を握りしめたまま、極めて静かに、しかし空気が凍りつくような冷徹な声で告げた。

 普段、シルフィの前でだらしなく蕩けている顔はそこにはない。相手の貴族を見下ろす精悍な瞳には、一片の揺らぎもない絶対的な『騎士』の静かな怒りが宿っていた。


「無礼者! この壺の価値を知っての狼藉か! このガキが壊したのだぞ!」

「ええ、大切な物とお見受けしました……。もし弁償できるものなら、私の給金から毎月差し引いていただいても構いません」

「は……? 貴様、神殿騎士の分際で、この平民のガキを庇うというのか!」


 貴族の嘲笑を含んだ罵声にも、ユーロスの表情は微塵も動かなかった。

 彼は怯える少年の前に静かに立ち塞がり、純白のマントを盾のように広げて堂々と言い放った。


「この子は確かに過ちを犯しました」


 ユーロスは静かに言った。


「ですが、それは恐怖に震える子供へ杖を振り下ろしてよい理由にはなりません」


 憂いを称えた瞳で、ユーロスは続ける。


「我が剣と盾は、弱きを守るためにあります。それを教えてくださったのは、私が仕えるこの神殿であり――我が主君、シルフィ様です」


 その言葉は決して声を荒らげたものではなかったが、回廊の空気を震わせるほどの重く、深い響きを持っていた。


 一切の保身を捨て、己の信念だけを真っ直ぐに貫くその気高く揺るぎない背中を、シルフィは物陰から息を呑んで見つめていた。


(……この子は)


 私に対して、いつも頭が沸いたようなことばかりを言う、おかしな青年。

 それが彼への認識だった。

 しかし、あの狂気的なまでの執着の根底にあるのは、己の『信念』を絶対に曲げないという、誰よりも高潔で純粋な魂なのだ。


(ただの変人などではありませんね)


 シルフィは静かに息を呑む。

 いつもなら求婚ばかりしてくる困った部下。

 だが今、目の前にいるのは――己の信念のためなら損得すら顧みない、一人の誇り高い騎士だった。


 気づけばシルフィは、その背中から目を離せなくなっていた。




「……彼の申す通りです」


 これ以上は不要と判断し、シルフィは回廊の陰から静かに歩み出た。

 慈愛に満ちた、けれど決して反論を許さない絶対的な威厳を持つ『風の柱』の登場に、場の空気は張り詰め、貴族は顔色を変えてたじろいだ。


「シ、シルフィ様……!」

「お父上の壺の件は、神殿の責任において私が対処いたしましょう。ですが、我が神殿内での暴力は、たとえ客人であっても容認できません」

「っ……! し、失礼いたしました!」


 貴族が逃げるように立ち去ると、少年はへたり込んだまま大粒の涙をこぼした。

 ユーロスはすぐに膝をつき、少年の頭を大きな手で優しく撫でる。


「もう大丈夫だ。怪我はないかい?」

「はい……っ、ありがとうございます、騎士様……っ」


 少年に笑顔が戻り、去っていくのを見送った後、ユーロスは立ち上がり、シルフィに向かって深く頭を下げた。


「お騒がせいたしました、シルフィ様。出過ぎた真似を……」

「いいえ」


 シルフィは首を横に振り、彼の精悍な顔を真っ直ぐに見上げた。


「貴方の行動は、神殿騎士として、そして一人の人間として、大変立派でした。弱きを守るその信念……貴方を、心から誇りに思いますよ、ユーロス」


 それは、上司としての労いだけではなく、彼女自身の心からの称賛と、敬意を込めた言葉だった。


「ッ……!!」


 その瞬間――

 先ほどまでの冷徹で頼もしい騎士の顔面が、まるで熱した飴細工のように、どろどろに甘く蕩け始めた。


「おおぉ……! 我が女神、シルフィ様!! あなたにそのように讃えられるとは、騎士冥利に尽きます! この誇り高き魂と肉体、そして未来永劫のすべてを、今すぐあなたに捧げます! さあ、結婚を!!」

「しません」


 シルフィは秒で真顔に戻り、極めて流麗に即答した。


「なぜですかシルフィ様ァ! 今の私の背中、頼もしくなかったですか!?」

「とても頼もしく、尊敬に値すると思いましたが、結婚はしません」


 ピシャリと言い放ち、シルフィは衣服の皺を払って歩き出す。

 背後「明日もまた求婚しますからね!」という騒がしい声が響く。


 相変わらずの、騒々しい日常の風景。


 シルフィは一度だけ小さく息を吐き――そのまま、口元に浮かんだ笑みを消せなかった。

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