第7話「女神のいない日」
神殿の修練場は、いつになく穏やかな空気に包まれていた。
木剣が打ち合う乾いた音と、騎士たちの威勢の良い声。
それは普段と変わらない日常の風景だが、決定的に違うことが一つだけあった。
「……今日は、平和だな」
修練場の隅で腕を組む騎士団長が、深い安堵の息を吐き出した。
「ええ。午前の修練が半分終わりましたが、木剣の消費はゼロです。経費係が泣いて喜んでおりました」
隣に立つ副団長も、まるで嵐が過ぎ去った後のような穏やかな顔で頷いている。
二人の視線の先には、若き新任騎士ユーロスの姿があった。
彼は三人の先輩騎士を相手に、流麗な剣捌きで立ち回っている。
恵まれた体躯から繰り出される剣撃は重く鋭いが、そこには一切の力みがない。相手の隙を的確に突き、次々と木剣を弾き飛ばしていく。
「参った! 相変わらず強えな、ユーロス」
「いえ、ケイロン先輩の今の踏み込み、非常に鋭かったです」
地に倒れたケイロンに爽やかな笑顔で手を差し伸べるその姿は、どこからどう見ても『非の打ち所がない完璧な騎士』そのものだった。
「ユーロス、今日は妙に落ち着いてるわね」
短く結った髪を解き、汗を拭いながら、先輩騎士のサティが声をかけた。
「いつもなら、渡り廊下の方をチラチラ見ては、勝手に木剣を握り潰してるのに」
そのからかい半分の言葉に、ユーロスは剣を納め、涼やかな顔で答えた。
「当然です。本日はシルフィ様は東の街へ巡礼に出向かれておりますから。お姿が見えないことは、朝から承知しております」
「ああ、そうだったわね」
「はい。シルフィ様がこの神殿にいらっしゃらない以上、私の心は凪いだ水面と同じです」
「へえ」
「今朝もお見送りした後、三十七回ほど深呼吸を行い、動揺は完全に鎮めました」
「全然凪いでなくない?」
シルフィが視界に入ると途端に頭のネジが吹き飛んで狂気的な握力を発揮する彼だが、彼女が不在であれば、ただの『最強の若き騎士』に過ぎない。
「なるほどな。お前、シルフィ様がいないと普通に超優秀な奴なんだな……」
先輩騎士たちは、どこか遠い目をしながら納得した。
平和だ。
誰もがそう思った。
修練場には爽やかな風が吹き抜け、木剣がへし折れる不穏な破裂音に怯える必要もない。
シルフィ不在の神殿は、ユーロス本来のポテンシャルを遺憾なく発揮させ、騎士団に平穏な日常をもたらしていた。
「よし、午前の修練はここまで! 各自、休息をとれ!」
副団長の号令が響き、騎士たちが三々五々、日陰へと向かっていく。
ユーロスもまた、木剣を定位置に丁寧に戻した。
そして、昔馴染である先輩騎士の元へと歩み寄り、至って真剣な表情で口を開いた。
「ケイロン先輩」
「ん? どうした、ユーロス」
「シルフィ様がお戻りになる夕刻まで、あと五時間と十二分あります」
「お、おう。そうだな」
「……十一年待てたのです。五時間など短いものです」
「じゃあ何でそんな顔してんだ?」
「心が耐えません……」
「…………」
修練場に、気まずい沈黙が降りた。
涼やかな顔で、とんでもない極論を大真面目に相談してくる期待の新人。
「……お前、やっぱり変わってんな」
「え?」
「いいから休め。頼むから、大人しく飯を食って普通に休んでくれ」
「しかし、シルフィ様への愛がこの胸を焦がして……ッ」
「副団長ー! ユーロスがまた滝に行こうとしてまーす!」
「行かせるな!」
「しかし副団長、これは試練なのです!」
「何がだ!?」
「あと五時間と十二分あります……」
「だから何だ」
「あと五時間十一分になりました……」
「知らん!」
騎士たちが昼食へ向かった後、ユーロスはふと空を見上げた。
東の空。
シルフィが巡礼に向かった方角だった。
「……あと、五時間」
十一年待てた。
それでも今日という一日は、どうしようもなく長い。
「早く、お顔が見たいな」
誰にも聞こえない声は、風に溶けた。
その直後――
「ユーロス!」
「はい?」
「空見てないで飯食え!」
「失礼しました」




