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第6話「女神の前の顔」

 心地よい風が吹き抜ける神殿の中庭。

 シルフィは、職務の合間の休息として、花壇の手入れをしていた。


 彼女は植物の世話が好きだった。

 種を撒き、苗を育て、花を咲かせることは、人々を導き、見守る柱としての務めとよく似ていた――

 手塩にかけて育てた花々は、美しく咲くたびに人の心を満たしてくれる。


 神殿の結界は強固であり、ここはダイタニアでも最も安全な場所の一つであるはずだった。


 しかし、その平穏は突如として破られた。


『ギャアアアアッ!』


 耳を劈くような怪鳥の叫び声。結界の僅かな綻びから、一体の魔獣が侵入してきたのだ。

 巨大な翼と鋼のように鋭い鉤爪を持つ、下級の竜種。

 それは中庭で立ちすくむ若い神官たちへ向けて、一直線に急降下してきた。


「いけません……!」


 シルフィはスコップを持ったまま瞬時に立ち上がり、風の精霊に呼びかけて魔力を練り上げようとした。

 だが、彼女が魔法を放つよりも、その《純白の閃光》が走る方が圧倒的に早かった。


『ザンッ!!』


 大気が裂けた。


 それが剣閃だったと理解した時には、怪鳥の巨体はすでに上下へと滑るようにずれ落ちていた。


 次の瞬間、血飛沫すら許されなかった竜種の亡骸が、轟音と共に石畳へと崩れ落ちる。


「……遅い」


 吹き荒れる血しぶきと砂埃の中心に、一人の騎士が静かに着地した。


 ユーロスだった。


 引き抜かれた長剣は魔獣の血に濡れることなく、白銀の輝きを保っている。

 彼が剣を振り抜いたままの姿勢で見せた横顔は、一切の感情を排した、冬空から垂れ下がる氷柱のような『最強の騎士』のそれだった。




(……なんて、見事な剣筋でしょう)


 風に揺れる彼の白銀のマントと、研ぎ澄まされた精悍な横顔。

 それを見た瞬間、シルフィは純粋な感嘆の息を漏らした。


 いつも自分にまとわりついてくる厄介な部下。その認識が、今この瞬間だけは完全に吹き飛んでいた。

 圧倒的な強さと、守り抜くための確かな力。

 これほどまでに洗練された武を振るう若者が自分の護衛についていることに、深い安心感を覚えたのだ。


 魔獣を仕留めたユーロスが、剣を鞘に納め、こちらを振り返る。

 シルフィは身構えた。いつものようにふやけた顔で、おかしなことを叫びながら駆け寄ってくるのだろう、と。


 しかし、予想に反して、ユーロスの表情は騎士としての真剣な険しさを保ったままだった。

 彼はシルフィの目の前まで足早に歩み寄ると、純白のマントを翻して優雅に片膝をつき、深く頭を下げた。


「お怪我はありませんか、シルフィ様。……お側におりながら、対応が遅れて申し訳ありません」


 低く響く、真摯な気遣いの声。

 そこにはいつもの浮ついた空気は微塵もなく、主君の安否をただ純粋に案じる、本物の聖騎士としての忠誠心だけがあった。


(いつもの調子ばかりではなかったのですね)


 シルフィは内心で小さく安堵し、慈愛に満ちた女神の微笑みを浮かべた。


「いいえ。素晴らしい剣筋でしたよ、ユーロス。皆を守ってくれてありがとう」

「もったいないお言葉です」

「いざという時はしっかりと役目を果たす。さすがは、神殿が期待する聖騎士ですね。……貴方のこと、少し見直しましたよ」


 シルフィが心からの称賛を送ると、片膝をついていたユーロスは静かに顔を上げた。

 その精悍な顔立ちには、騎士としての凛々しい使命感が燃え上がっている。


「ええ。あなたを生涯お護りし、支えることこそが、私のただ一つの使命ですから」

「……そうですか」


 シルフィは小さく目を細めた。


「貴方のような騎士が護衛でいてくれることを、心強く思いますよ」

「……ありがとうございます」


 一瞬だけ、ユーロスの表情が年相応の青年のように綻ぶ。


「ですので、どうか私と結婚してください」

「…………しません」


 シルフィは極めて流麗に、氷のような女神の微笑みで即答した。

 せっかくの真面目な主従の空気が、たった一言で木端微塵に粉砕される。


「なぜですか、シルフィ様! 今の私の剣戟、頼もしいと思われませんでしたか!?」

「頼もしいとは思いましたが、結婚はしません」

「必ずやあなたを世界一幸せにしてみせます! 明日の朝も、またお顔を見に参りますからね!」


 大真面目な顔で宣言するユーロスを背に、シルフィは「ご苦労様でした」とだけ言い残し、衣服の皺を払って足早に中庭を後にした。

 背後から聞こえてくる彼の熱烈な声を、完全に無視して歩き続ける。


 いつも通りの、厄介な部下と完璧な女神の日常風景。


 しかし、回廊の角を曲がり、彼の視線から完全に逃れた瞬間――シルフィはふと足を止め、魔獣が両断された中庭の方へと小さく視線を向けた。


「……本当に、油断のならない子ですね」


 彼女の頬に朱は差していないし、鼓動が狂ったわけでもない。

 ただ、あの冷徹で圧倒的な白刃の閃きと、直後に見せた真摯な騎士としての横顔は、シルフィの脳裏に確かな関心を残していた。


 シルフィは小さく息を吐いた。


 ――あの剣筋は、見事でしたね。


 誰に聞かせるでもなく呟くと、彼女は再び歩き出した。

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