第5話「視線の先の女神」
神殿の裏手にある騎士団の修練場には、朝から木剣の打ち合う乾いた音が響いていた。
「……見事な太刀筋だ」
騎士団長の唸り声の先で、ユーロスが三人の先輩騎士を相手に剣を振るっている。
「……踏み込み、魔力の練り上げ、そしてあの冷静な判断力。非の打ち所がない」
樽のような筋肉と圧倒的な長身から繰り出される剣撃は重く鋭いが、決して力任せではない。相手の呼吸を読み、最小限の動きで的確に木剣を弾き飛ばしていく。
倒れた先輩に爽やかな笑顔で手を差し伸べるその姿には、誰もが憧れる若き英雄の風格が漂っていた。
「ええ。人望もあり、性格も誠実。間違いなく騎士団随一の逸材です」
「ああ、完璧な男だ。だがな――」
隣に立つ副団長の同意に、団長は眉間を深く揉みほぐし、重いため息を吐き出した。
「奴は完璧だ。……シルフィ様さえ絡まなければな」
「絡むと?」
「全部吹き飛ぶ」
「……おっしゃる通りです」
副団長もまた、遠い目をして深く頷いた。
彼らの視線の先で、ユーロスの動きが不自然にピタリと止まった。
修練場のずっと向こう、中庭をぐるりと囲む渡り廊下を、朝の祈りを終えたシルフィが一人で歩いていくのが見えたのだ。
距離にして五十メートル以上は離れている。普通なら気に留めることもない距離だ。
しかし、ユーロスの顔は、彼女の姿を視界に捉えた瞬間、まるで別人のように甘く蕩けたものへと変貌した。
「ああ……我が女神。今日の足取りも、春のそよ風のように愛らしく、麗しい……」
彼はうっとりと恍惚な吐息を漏らし、完全に周囲の状況を忘却した。
そして、シルフィの姿を網膜に焼き付けようとするあまり、彼自身の無意識下でとんでもない力が両腕に込められていく。
『ミシッ……メキメキッ……』
ユーロスの大きな手に握り込まれていた訓練用の分厚い木剣が、不穏な悲鳴を上げ始めた。
「……ねえ、ユーロス。あなた、また手に力が入って――」
「今すぐお側へ……いや、汗まみれで近づくなど不敬……! 滝だ。まず滝へ行かねば!」
『ミシッ……』
「あ」
『メキ……メキメキッ……』
「ユーロスっ!?」
「シルフィ様……!」
『バキィィィィンッ!!』
先輩騎士のサティが止める間もなく、彼が握りしめていた頑丈な樫の木剣が、重すぎる情念の握力に耐えきれず、木端微塵にへし折れた。
折れた剣の先端が、宙を舞って修練場の隅へと突き刺さる。
「ヒィッ!?」
「ま、また折りやがった……!」
周囲の騎士たちがドン引きしてざわつく中、ユーロスは折れた柄を握りしめたまま、全く意に介する様子もなく、キラキラと輝く純粋な瞳で渡り廊下を見つめ続けていた。
「団長……」
「今週で三本目だぞ!」
「先週は四本でした」
「……成長、しているな」
「してます、かね……?」
「……経費係に伝えておけ。来月から、ユーロス用の木剣は鉄芯入りの特注品にすると」
頭を抱える団長と副団長の哀愁に満ちた会話など、もちろん彼には届いていない。
一方、遠く離れた渡り廊下を歩いていたシルフィは、修練場から響いた大きな破壊音に、ふと足を止めてそちらへ視線を向けた。
(あら。また激しい音がしましたね)
目を凝らすと、騎士たちが集まり、何やら呆然と立ち尽くしているのが見える。
シルフィは冷静に状況を分析し、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて小さく頷いた。
(木剣が折れるほど、熱心に稽古に励んでいるのですね)
カツカツと、しっかりとした靴音が回廊に響く。
(新任のユーロスも、あれくらい鍛錬に打ち込めば、もう少し落ち着くのでしょうけれど)
自分が原因で、期待の新人騎士が狂気的な握力を発揮して木剣をへし折っているなどとは微塵も思わず、シルフィは「騎士たちの鍛錬は素晴らしいですね」と一人で納得し、再び優雅な足取りで自室へと戻っていく。
「ああっ! 今、シルフィ様がこちらを見て微笑んでくださった! やはり今すぐ結婚を……ッ!」
「落ち着けユーロス! お前はまず、その折れた木剣を片付けろォ!!」
完璧すぎる騎士の、たった一つにして最大の欠陥は、今日も騎士団の平穏を容赦なく打ち砕き、当の女神だけがその惨状に全く気づいていないのであった。




