第4話「女神は見た」
風の神殿の午後は、穏やかな木漏れ日と共にゆっくりと過ぎていく。
シルフィは、午後の祈りを終え、回廊を静かに歩いていた。
ふと、中庭に続く広場の方から、小さな悲鳴と鈍い音が聞こえてきた。
「あっ……!」
視線を向けると、まだ十歳にも満たない幼い神官見習いの少年が、自分の背丈ほどもある重そうな文献の山を抱えきれずに落としてしまったところだった。
古い羊皮紙や重厚な装丁の本が、石畳の上に無残に散らばっている。
(いけませんね。あんな重いものを一人で運ばせるなんて――)
シルフィが助けに入ろうと足を踏み出した、その時だった。
「怪我はないかい?」
ひらりと純白のマントを翻し、一人の青年が少年のそばにふわりと片膝をついた。
ユーロスだった。
彼は素早く、それでいて本を傷つけない丁寧な手つきで散らばった文献を拾い集めると、軽々と自らの片腕に抱え込んだ。
「あ、ありがとうございます、騎士様……っ」
「いいよ。こんなに重いものを一人で運ぼうとするなんて、君は立派だな」
ユーロスは少年の頭を大きな手で優しく撫で、太陽のように爽やかな、労いの微笑みを向けた。
その大柄で逞しい騎士の優しさに、少年の瞳は憧憬でキラキラと輝き始める。
「書庫まで運べばいいのかな? 一緒に行こう」
そう言って少年の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出すユーロスの背中を、シルフィは回廊の陰から静かに見つめていた。
(……意外と、面倒見が良いのですね)
毎朝の求婚騒ぎさえなければ、きっと誰もが理想の騎士だと口を揃えるのだろう。
その数日後、シルフィは日課の散策中、神殿の修練場を通りかかった。
そこでは騎士たちが木剣を交え、汗を流している。
一際目を引いたのは、やはりユーロスだった。
彼は屈強な先輩騎士三人を相手に、息一つ乱すことなく優雅な剣捌きで次々と打ち倒していた。
「参った! 相変わらず、恐ろしい剣筋だな、ユーロス」
「いえ、ケイロン先輩の先ほどの踏み込み、非常に鋭かったです。ただ、右肩が少し下がる癖があるので、そこを狙わせてもらいました」
地に倒れた先輩騎士に爽やかな笑顔で手を差し伸べ、的確な助言をおくる。
その謙虚で誠実な態度は嫌味を感じさせず、周囲の騎士たちも彼を囲んで和やかに笑い合っている。
(剣術も神殿随一。礼儀正しく、面倒見も良い。 ……それなのに――)
シルフィは柱の陰でそっと首を傾げた。
(何故、私に対してだけあのように極端な思考回路になってしまうのでしょう)
シルフィの思考は冬の湖面のように澄み渡っていた。
ユーロスは『完璧な騎士』である。
しかし、十一年前の初恋を拗らせ続けた結果、その優秀な頭脳はシルフィを前にした時だけ『どうすれば彼女を守り、この想いを届けられるか』という一点へと一直線に傾いてしまうのだ。
「――あ、シルフィ様!」
ふいに、修練場にいたユーロスが回廊に佇むシルフィの姿に気づいた。
瞬時にその精悍な顔が崩れ、主人を見つけた大型犬のようにぱっと目を輝かせた。
周囲の騎士たちが止める間もなく、一陣の風のように彼女の目の前へと駆け寄ってくる。
「シルフィ様! 今日も涼やかな風のようにお美しい。どうか私と結婚を……」
「……お断りします」
シルフィは極めて流麗に即答し、彼の言葉をピシャリと遮った。
即座に断られたユーロスだったが、全く気にした様子もなく「では、私室までの護衛はお任せを」と、当然のように彼女の斜め後ろに付き従う。
「……あのですね」
歩きながら、シルフィは前を向いたまま小さく口を開いた。
「この前、神官見習いの子供を助けていましたね。意外と面倒見が良いのだと、少し感心しました」
「っ!」
シルフィから初めて向けられた『褒め言葉』に、ユーロスは目に見えて背筋を伸ばし、その精悍な顔をパッと輝かせた。
「もったいないお言葉です、シルフィ様! 私は、あなたをお守りするに相応しい、心優しく頼れる騎士となるべく日々精進しております。将来、良き父親となるためにも……!」
「そうですね。将来、貴方に相応しい若く可愛らしい奥様と、良いご家庭を築けるよう祈っておりますよ」
シルフィは、ユーロスの重すぎる飛躍を華麗にスルーし、あくまで“一般論”として慈愛の笑みを浮かべてみせた。
「……シルフィ様? 私は、あなたとの未来の話を――」
「今日の護衛はここまでで結構です。ご苦労様でした」
自室の扉の前でふわりと微笑み、シルフィは彼を締め出すようにパタンと扉を閉めた。
扉の向こう側で、ユーロスが「シルフィ様ぁ……!」と少し情けない声を上げているのが聞こえる。
シルフィは小さくため息をつきながらも、その口元には、ほんのわずかだけ呆れたような、柔らかい笑みが浮かんでいた。
(本当に……私に対してだけ……。困った子ですね)
完璧な女神と、彼女にだけ空回りする優秀な騎士。
交わらない二人の日常は、今日も神殿に穏やかな風を吹かせていた。




