014話 ~ 雨に立つ子供・未定義起動
朝には太陽が見えなかった。
鈍色の雲が空一面を塗りつぶし、今にも俺たちのところに雨が挨拶に来そうだった。
(この辺りに霧が立ち込めるのは珍しいか)
荷物を片付けて馬に跨った直後、霧はまるで地面に吸い込まれるように消えていった。
代わりに、いよいよ雨が降り出した。
俺はリーナのパッチワークの服や、自分のマントが濡れて重くなることを覚悟した。
ところが、不思議なことが起きた。
騎士たちやリーナの周囲に、目に見えない「天井」のようなものが展開されている。
雨粒は俺たちの頭上、手を伸ばした辺りで弾かれ、左右に流れていく。
リーナは、大きな葉を出して傘の代わりにしようとしたらしい。
だが、それは途中でしおれ、小さく崩れて消えていった。
(騎士たちは無関心か……。馬にも何か掛かっているのか)
馬の足取りは、ぬかるみ始めたはずの地面を苦にしている様子がない。
「ポチ、すごいよね、これ! これもたぶん高級魔法だよ」
(俺にない専門的見地か……構造が複雑そうだな)
空中に手を伸ばすリーナの声が、妙に近く、不自然に響く。
音の反響がおかしくなっているのは、この見えない天井のせいみたいだ。
そのおかげでリーナは退屈していないようだった。
「骨君、リーナ嬢。私のそばに来るんだ――」
不意に、クラリスの低く緊迫した声が飛んできた。
余計な思考を遮断し、何も言わずにリーナと一緒に足を止めた。
「アジヒスト、メーディス! 剣を抜け。前方捜索だ!」
クラリスの先ほどまでとは打って変わった、鋭く短い命令が空気を切り裂いた。
それと同時に、二人の騎士が迷いなく剣を鞘から引き抜く。
その剣先から放たれた光は、無色の、薄暗い雨霧の壁を強引に抉るように照らし出した。
「迷わされたのか……我々が。レッシュー、お前ならどうする?」
クラリスに問われた騎士は、纏った鎧の厚みの中でもわかる、まだ少年と言えるほど幼い男の子だった。
だが、その声に迷いはない。
「は、はい! 幻影系、催眠系の場合、《カウンター・ハック》が有効です」
「良し! 直ちに射撃を許可する」
少年騎士――レッシューが、流れるような動作で背中に背負っていた弩を準備しだした。
その指先が、雨に濡れた弦を迷いなく引き絞る。
クラリスは鋭い視線で辺りを見渡すと、俺の近くへと馬ごと寄せて来た。
「骨君は、なにか心当たりはあるかな?」
彼女の瞳に疑念の色はない。
だが、この異常事態が、俺という「特異点」を起点に引き寄せられた可能性を、彼女の直感が見逃していないのも確かだった。
(……心当たり、か)
断定はしていない。だが、外してもいない。
この場所に本来いるはずのない「何か」が、俺というイレギュラーな存在に引き寄せられたのではないか――。
俺自身も、直感的にそう感じていた。
体の全体から、まだ名前しか知らない英雄王ラフィウスが――何かを語り掛けているようだ。
(……俺のせい、か)
俺の表情を読める者はいないだろう。
だからと言って、ここで嘘をつく理由など何もない。
「俺は何も知らない……けど、俺のせいだろうな。申し訳ない」
フードの奥から発せられた俺の声は、雨音に混じって低く、濡れた響きを立てた。
謝罪の言葉に嘘はない。
だが、その言葉とは裏腹に、俺の体はこれまでにないほどに覚醒していた。
リーナの詩とは違う。外から起こされているような感覚だった。
全身の骨の隙間を、冷たい熱のようなものが駆け巡る。
それが、雨霧の向こうにある正体不明の何かへと、意識を向けさせていた。
「……謝る必要はない。モンスター狩りも、我ら騎士の仕事だ」
(こんな世界だとは知っているが……これが武者震いか)
「ポチぃ、平気? 雨とか……状況作ってくるのは、陰険なモンスターだから気をつけてね」
リーナは馬のたてがみを撫でながら、空から降る雨をずっと見ていた。
彼女の指先は、まるで目に見えない糸を解こうとするかのように、落ち着かなく空中で動いている。
「モンスターが来るときは何故かわかるんだよね、感みたいなものだけど……」
(誰でも持つ第六感か。俺の骨の髄まで、ピリピリときているよ)
「レッシュー、どうだった」
クラリスの問いに、少年騎士は弩を構えたまま、何度も瞬きを繰り返した。
その指先は引き金にかかったまま、凍りついたように動かない。
「クラリス様、すいません。……何も、掛かりませんでした」
レッシューの小声が、雨音の隙間を縫うように届いたが、クラリスのうなじは彫像のように微動だにしなかった。彼女の視線は、ただ真っ直ぐに、濁った霧の深淵だけを射抜いている。
「そうか……定期的に撃っておけ。アジヒストたちが戻らない、こちらから探しに行くぞ」
クラリスはそう言って、自らの手綱を短く持ち直した。
彼女の馬が、ぬかるんだ地面を嫌うように蹄を鳴らし、一歩を踏み出す。
俺たちもそれに続いた。
自然と隊列は引き締まり、誰も言葉を発さないまま、泥にまみれた道を進みだした。
(状況を作ってくる、モンスターか……)
俺の脳がその言葉を反芻する。
不意に、レッシューの持つ弩の先が、俺たちの進行方向へと固定された。
「クラリス様……遠距離で見えます。アジヒストとメーディスではありません」
雨霧の向こう。俺には何も見えない。
だが、その一言で、張り詰めていた空気が戦闘態勢へと変わった。
先ほどまで整然としていた隊列が、無言のまま形を変える。
「抜刀そのまま待て……私が前に出る」
クラリスはそう言い捨てると、馬の脇腹を拍車で鋭く蹴り上げた。
彼女の身体が前傾し、重心が馬の首筋へと沈み込む。
俺たちを追い越し、最前列へと躍り出る。
それに合わせて、隊全体の速度が揃う。
(……あれか)
クラリスは、その子の目の前で馬を止めた。
彼女は馬上からその鋭い双眸を細める。
霧の向こうから現れたのは、怪物ではない。
雨に打たれ、ずぶ濡れになったまま立ち尽くす、年端もいかない子供だった。
その小さな腕の中には、自分と同じくらいの、泥に汚れた漆黒の犬が抱えられている。
張り付いた前髪の影に隠れ、子供の瞳はうかがい知れない。
気付けば、騎士たちが周囲を固めていた。
今では子供と黒い犬だけが、無慈悲な雨に叩きつけられている。
「ポチ、あれ……!」
沈黙の中、リーナの声が低く落ちた。
俺のすぐ横で、零れ落ちるように呟かれたその一言が、頭に残る。
「ポチか……」
俺がその名を反芻した瞬間、子供の唇が雨粒を弾いた。
「ねえ! 骨の〝おにいちゃん〟。ポチを助けてよ」
子供の声は、雨音に混じってどこまでも平坦だった。
前髪の隙間から覗く瞳は、焦点の合わない硝子玉のように、ただ真っ直ぐに俺を見ている。
(……知っているのか)
「ポチ、その子……変だよ」
リーナの声が、すぐ横で落ちた。
俺は視線を、子供の腕の中へと落とす。
泥に濡れた黒い毛並み。
崩れた頭部。そこにあるはずのものが、欠けている。
(……間違いない)
「あれは……ポチだ」
俺の口から飛び出たそれは、そもそも唇がないからか。
言葉というよりは、空洞を抜ける風のような、ただ唖然とした現象でしかないようだった。
俺は馬の背から、泥濘へと足骨を下ろした。
着いて来ようとしたリーナの手を、視線だけで制止する。
彼女は言葉を飲み込み、馬のたてがみを握りしめたまま、揺れる瞳で俺の背中を見つめていた。
次は、クラリスが俺を呼び止めようと喉を震わせた。
だが、その制止が形になる前に、俺は前へと歩き出した。
パッチワークのマントがあっという間に雨で重くなる。
目の前で、子供がゆっくりと顔を上げる。
抱えられた漆黒の死骸――「ポチ」が、俺の接近に呼応するように、子供の腕から、ずるりと滑り落ちかけた。
「ねえ、〝おにいちゃん〟。ポチに返してよ――そして帰ってよ……元の場所に」
(……返す? 何をだ)
視線が、子供の腕の中へと落ちる。
雨に濡れた黒い毛並み。頭部は砕け、中は空だ。
ポチはそこにある。
中身は――ここにある。
「いいでしょ? 起きるはずではなかったんだから」
(……起きるはずではない?)
俺は起きないのか?
いや、俺が起こしたはずだ。俺は……時史。だが、その記憶もない。
「何も知らない、わからないんだ! お前は誰なんだ!」
俺が出した突然の大声に、反応したものは一人もいなかった。
ただ、降っていた雨が止まっていた。
この場には、足元の水たまりに落ちる音だけ。
「僕、帰るよ。話にならない」
騎士に囲まれた子供から――無言の威圧を感じた。
(本当に誰なんだ、お前は……そして俺は)
それは誰も予期していない行動だっただろう。
俺もだ。
骨だけの右手を、俺は伸ばした。
目の前の子供へ――
そこにあると、断定していた。
指先が、皮膚をすり抜け、そのまま頭の中へと沈んでいく。




