The story’s 似顔絵屋 6
走っていた。
息が切れているのは分かっていた。
足が重くなっているのも分かっていた。
それでも止まれなかった。
この村に来るまで、どれくらい歩いたのか覚えていない。
途中で何度も迷った。
それでも、来るしかなかった。
理由はひとつだけ。
――自分の顔を、知りたかった。
この村は、顔を描かない場所だと聞いた。
正確には、“描く必要がない”場所。
だからこそ、逆に噂になっていた。
「そこに、旅の似顔絵師がいる」
その話を聞いたとき、迷いはなかった。
私は、自分の顔を知らない。
それ自体は普通のことだ。
この世界では、誰もがそうだ。
でも私は、それを“普通”として受け入れられなかった。
人と話すとき。
笑うとき。
怒るとき。
自分がどんな顔をしているのか分からない。
相手の表情は見えるのに、
自分の表情は、どこにも存在しない。
その“空白”が、ずっと怖かった。
村に着いたとき、最初に感じたのは静けさだった。
誰も急いでいない。
誰も、何かを求めていない。
それが、逆に焦りを強くした。
――ここにいるはず。
私は走った。
広場。
道。
家の間。
そして、見つけた。
一人で歩いている男。
紙と炭筆を持っている。
「……あの!」
声が思ったより大きく出た。
男が振り向く。
私は息を整える間もなく言った。
「似顔絵、描けますか」
男は少しだけ私を見て、うなずいた。
「描ける」
それだけで、十分だった。
「お願いします」
声が震えていた。
男は何も聞かなかった。
理由も、事情も。
ただ、近くの石に座るように言った。
私は座る。
呼吸がまだ荒い。
手が少し震えている。
男は紙を出す。
炭筆を持つ。
その瞬間、急に怖くなった。
――もし、違ったらどうしよう。
――もし、嫌な顔だったらどうしよう。
でも、それでも知りたかった。
男の手が動き始める。
最初の線。
輪郭。
次に、目。
その視線が、少しだけ私を見る。
逃げたくなる。
でも動かない。
見られている。
“顔”を見られている。
それが、初めての感覚だった。
時間が伸びる。
一秒一秒が、長い。
風が吹く。
髪が少し揺れる。
汗が流れる。
それでも、止まらない。
男の手も、私も。
やがて、男が言った。
「少し、動いていい」
私はうなずく。
そのまま少しだけ姿勢を変える。
また描く。
少し時間が経つ。
「もう少し」
また描く。
何度か繰り返す。
同じ紙じゃない。
新しい紙。
また新しい紙。
私は気づく。
一枚じゃない。
何枚も描いている。
息が整う頃には、少しだけ余裕ができていた。
最初の怖さが、少し薄れる。
ただ、描かれている。
それだけの時間になる。
最後に、男の手が止まる。
何枚かの紙が、重ねられている。
「見ていい」
私はそれを受け取る。
一枚目を見る。
そこには、少し硬い顔の自分がいた。
緊張している。
息も浅い。
二枚目。
少し目が開いている。
三枚目。
少しだけ、力が抜けている。
四枚目。
汗が浮かんでいる。
五枚目。
少しだけ、何かを受け入れている顔。
私はゆっくりと、紙をめくる。
ぱら、ぱら、と。
何枚も。
順番に。
そのとき、気づく。
――動いている。
紙の中の自分が、少しずつ変わっていく。
硬かった顔が、ほどけていく。
怖がっていた顔が、落ち着いていく。
“知らなかった自分”が、連なっている。
それは一枚の顔じゃない。
時間だった。
私は、ページをめくるのをやめる。
全部をまとめて持つ。
その重さを感じる。
「……これが、私?」
声に出る。
男は少しだけ考えてから言った。
「見えたままを描いた」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
一枚じゃない。
一瞬でもない。
“流れ”としての自分。
それを初めて見た。
私は少しだけ笑った。
どの紙にも、少しずつ違う私がいる。
でも全部、確かに私だった。
風が吹く。
紙が揺れる。
私はそれをしっかりと押さえた。
もう、手放したくなかった。
走ってきた意味が、そこにあった。




