第九話 昔話でも、と老臣は笑う
第九話 昔話でも、と老臣は笑う
昔話、という言葉ほど、ミラを凍らせるものはなかった。
宰相オルグレンは、柱の前に逃げ場を失ったミラの正面に、ゆったりと立った。恰幅のいい体が、周囲の視線を巧みに引き寄せる。人々は、妃候補と実力者の対話を、見物しようと足を止めはじめた。衆目。この老臣は、それを盾に使っている。ここで綻べば、目撃者は広間の全員になる。
「ローゼンフェルトのご令嬢とは、ずいぶんと長いお付き合いでしてな」宰相は袖の中で手を組んだ。「あなたが五つのころ、王都の私の邸へ、お父上に連れられておいでになった。庭の白い東屋で、あなたは池の鯉に、菓子をやってしまわれた。叱られて、泣いておられましたな」
(罠だ。細部が、多すぎる)
五つ。白い東屋。池の鯉。菓子。涙。イレーネのときと同じだ。作り話には、粗が出る。人は嘘をつくとき、細部を盛りすぎる。だがこの老臣は、イレーネとは格が違った。声に、体温の揺れがない。どこが本当で、どこが嘘か、口ぶりから読み取らせない。すべてが、平らに滑らかだった。
賭けられる手札が、ない。
「懐かしい、お庭ですこと」ミラは、事実の位置を探れぬまま、いちばん薄い言葉を置いた。景色だけを認め、出来事には踏み込まない。「白い東屋は、今も?」
「おや」宰相の目が、すう、と細くなった。「あの東屋は、翌年の嵐で倒れ、建て直しております。白ではなく、灰色の石でな。令嬢は、白いままだと、覚えておいでか」
背筋を、氷が滑り落ちた。
罠は、二重だった。菓子と涙は、こちらの心当たりを誘う餌。本命は「白い東屋」。倒れて灰色に建て直された東屋を、本物のアデルなら「白」とは言わない。ミラは今、知らぬはずの景色を「白い」と口にして、自ら継ぎ目を晒したのだ。
巧妙だった。この老臣は、答えを問うふりをして、罠を仕掛けていた。ミラが薄い言葉で逃げようとするその一手を、あらかじめ読み、逃げ道の先に落とし穴を掘っていた。イレーネの記憶の罠が、感情に任せた投網なら、この宰相のそれは、獲物の逃げる先を計算し尽くした、静かな括り罠だった。恐ろしいのは、この一手が、まだ序の口だということだ。
「それに」宰相は、たたみかけた。声が、低くなる。「あのとき、あなたと指切りをいたしましたな。『この庭のことは、二人だけの秘密に』と。令嬢。あのときの指切りの、小指の、どちらの手でしたか」
詰み、だった。
知らない。指切りの手など、知りようがない。右と言っても、左と言っても、当たるのは二分の一。外せば、宰相はこの衆目の前で、勝ち誇るだろう。ミラの背に、汗が伝う。喉の奥が、干上がっていく。
考えろ。逃げ場を探す目が、無意識に、人垣の切れ目を探した。指切りの手を当てる勝負に、乗ってはいけない。乗った時点で、この老臣の土俵に上がることになる。二分の一の賭けに、命は張れない。ならば、勝負の盤そのものを、ひっくり返すしかない。けれど、どうやって。この平らな声の男から、綻びを引き出す隙が、どこにある。
その、切れ目に。
「オルグレン」
静かな声が、割って入った。
いつのまにか、王がすぐ傍らに立っていた。宰相と、ミラの間へ、自然に身を置くように。感情の温度を抜いた目が、老臣へ向けられている。
「昔話とは、結構なことだ。だが、その庭の東屋は、五年前、私も見た」王は、平らに続けた。「灰色の石だった。子供のころの記憶と、今の景色を取り違えるのは、誰にでもあることだろう。そなたにも、あるのではないか。オルグレン」
王が、ミラの綻びを、老臣自身の物言いへ、そっくり返した。宰相の笑みが、ほんの一瞬、固まる。その、ほんの一拍。
ミラは、それを見逃さなかった。滑らかな水面に、初めて小さな波が立った瞬間だった。王の横槍で、宰相は「白い東屋」の追及を、いったん引っ込めざるを得なくなった。追及の刃が鈍ったこの一拍こそ、盤をひっくり返す隙だ。今しかない。ミラは、干上がった喉に、無理やり息を送り込んだ。指切りの手を当てるのではない。指切りを衆目に晒した、この老臣の分の悪さそのものを、突く。
「指切りの手なら」ミラは、静かに言った。宰相が固まった、その隙へ。「覚えておりませんわ。けれど宰相さま。二人だけの秘密だと、指切りをなさったのでしょう? それを今、これほどの人前で、大きな声で仰る。……秘密を守れぬ大人は、子供に嫌われますのよ」
広間の一角で、誰かが、ふ、と噴き出した。
笑いが、さざめきになって広がる。宰相が「本物しか知らぬ秘密」を衆目に晒したこと自体を、ミラは逆手に取った。記憶では勝てない。だから、記憶を問う行為そのものの分の悪さを、突いた。宰相の頬から、慇懃な笑みが、するりと剝がれ落ちた。
人垣が割れ、ミラは広間の出口へ向かった。
膝が、笑い出しそうだった。石の廊下の冷気が、汗ばんだ首筋に触れる。凌いだ。今夜も、凌いだ。王と、共に。
その背に、声がかかった。
「令嬢」
振り返る。宰相が、いつもの慇懃な笑みを取り戻して、こちらを見ていた。その目の奥だけが、笑っていない。
「あなたは、ずいぶんと……お変わりになられた」老臣は、ゆっくりと言った。「以前のあなたなら、あの東屋を『白い』と、迷わず仰ったでしょうにな。気のせいでしょうかな」
それだけ言うと、宰相は背を向けた。恰幅のいい背中が、灯りの届かぬ廊下の奥へ、ゆっくりと遠ざかっていく。足音は、一つも急いていなかった。急ぐ必要が、ないからだ。
ミラは、動けなかった。凌いだのではない。この老臣の胸に、確かな疑いを、一粒、植えつけてしまったのだ。イレーネは、傷ついて引き下がった。だが宰相は、傷ついてなどいない。むしろ、確信に一歩近づいて、満足して去っていった。明日から、この男は、その疑いを育てるために動きはじめる。どこかで、静かに、括り罠の縄を、もう一巻き、太くしながら。
廊下の奥で、鐘が一つ、低く鳴った。その余韻が消えても、ミラの手の甲には、王の手の温もりだけが、まだ残っていた。凌いだ代償に、この身は、宮廷でいちばん危うい男に、目を付けられたのだ。




