第十話 深入りは、死に近づくこと
第十話 深入りは、死に近づくこと
朝の卓に、一輪の花が置かれていた。
白でも赤でもない、淡い青みを帯びた小さな花だった。北の高地にだけ咲くと聞いたことのある花だ。添えられた小さな紙には、名も飾りもなく、代わりに短い一文だけがあった。「昨夜の舞は、悪くなかった」。署名は、ない。けれど、この宮廷で、署名なしに妃候補の卓へ花を届けさせられる者は、一人しかいなかった。
ミラは、花びらにそっと指を触れた。冷たい高地の風の匂いが、まだ残っている気がした。胸の奥が、勝手に、ふわりと軽くなる。
「お捨てください」
クラーラの声が、その軽さを、鋏のように断ち切った。
「その花は、毒です」ミラの手から花を取り上げると、クラーラはそれを卓の隅へ置いた。「昨夜、あなたは宰相オルグレン侯爵に、目を付けられました。もう、ただの妃候補ではありません。あの方が『偽物かもしれぬ』と疑いを持った以上、これからは違います。一つの綻びを突かれるのではない。あなたの立ち居ふるまい、そのすべてを、面で見張られる」
ミラは、花を見つめた。ふわりと軽くなった胸が、また、冷えていく。
「そして」クラーラの声が、低くなった。「陛下です。陛下に心を寄せることは、妃殿下。それはもう、綻びどころではありません。死に、近づくことです。偽物が、王に本気で愛されて、無事でいられた例など、ひとつもございません」
(分かっている。分かっているのに)
ミラは、返す言葉を持たなかった。昨夜、崖から落ちぬよう繋がれた、あの手の温もり。「なぜ、あの女のふりをする」と、独り言のように落とされた声。あれを、忘れられずにいる。忘れなければ死ぬと知りながら、忘れられない自分に、初めて気づいてしまった。芽は、もう出ていた。抜こうとして、根が思いのほか深いことを知る。
「わたし、そんなつもりは」つい、素の「わたし」が出た。ミラは、言い直す気力もなく、うつむいた。「ただ、あの方が、こわいのです。気づかれているのかもしれない。それなのに、庇われている。分からないから、目を離せないだけで」
「それを、心を寄せると申すのです」クラーラは、取り上げた花を、静かに紙で包んだ。捨てるためではない。押し花にでもするような、丁寧な手つきだった。その矛盾した所作を、ミラは見ていた。この氷の教官も、亡き主が誰かに恋した日のことを、どこかで覚えているのかもしれない、と。「わたしは、あなたに生き延びてほしいのです。ただ、それだけ」
昼、王からの使いが来た。
庭を、ともに歩かぬか。ただ、それだけの誘いだった。政の話ではない。人払いも、大仰な供もない。断る口実を探すこともできたが、ミラの足は、庭へ向かっていた。
秋の庭は、色を深めていた。色づいた蔦、散り敷く枯葉、乾いた土の匂い。王は、噴水のほとりで待っていた。ミラが礼を取ると、隣を歩けと目で示す。二人は、しばらく無言で、落葉の小径を進んだ。
「昨夜は、助けていただきました」ミラは、先に口を開いた。「宰相さまのことでは、なんとお礼を申し上げてよいか」
「礼はいらん」王は前を向いたまま言った。「私は、オルグレンが嫌いなだけだ」
乾いた声だった。けれど、その底に、ただの好悪では済まぬ何かが沈んでいた。ミラは、その響きを聞き取った。
「父が死んだとき」ふいに、王が言った。「病だと、皆が言った。オルグレンが、いちばん熱心に、そう言った。悲しげな顔で、私の肩に手を置いてな」
落葉を踏む足音だけが、しばらく続いた。
「私は、誰も信じられなくなった。笑いながら嘘をつく者ばかりの中で、たった一人でいることに、慣れた。慣れたと、思っていた」王は足を止め、色を失いかけた庭を見渡した。「そなたは、私が見ていると知って、指を隠さない。嘘のときも、目を逸らさない。……そういう者を、久しく、見ていなかった」
ミラは、その横顔を見つめた。氷血の王と呼ばれる男が、今、偽物の女の前で、剝き出しの孤独を晒している。
これは、演技だろうか。ミラは、疑うことをやめられなかった。下働きの娘は、人の善意をそのまま信じられない。優しい言葉の裏に、たいてい別の狙いがあると、身体で知っている。もし王が、こうして孤独を語って心を開かせ、油断した隙に偽物の証拠を掴もうとしているのだとしたら。ミラは、王の声の高さを、間の取り方を、視線の落とし方を、一つずつ検めた。作り事の告白には、聞き手の反応を窺う目の動きが混じる。相手が信じたかどうかを、確かめる視線が。けれど王の目は、ミラを見ていなかった。色を失いかけた庭の、その奥の、遠い何かを見ていた。反応を、求めていない。ただ、こぼれてしまっただけの言葉だった。
この人は、本気だ。ミラは、下働きの十八年で磨いた、たった一つのその目で、そう見極めた。
だからこそ、胸が痛んだ。この人は、偽物に、本気の孤独を差し出している。その相手が、名前すら偽りの女だと知りながら。あるいは、知っているからこそ。
(応えたい。でも、応えれば、この人を裏切ることになる)
この人が孤独を託しているのは、アデルハイトという名だ。ミラという娘ではない。もし本当の名を明かせば、この静かな信頼は、その場で憎悪に変わる。愛されるほど、遠ざかる。近づくほど、崖が深くなる。ミラは、繋ぎたくなった手を、そっと、自分の裾の陰に隠した。冷えた指先が、絹の下で、小さく震えていた。
庭を辞して、居室へ戻る帰り道だった。
回廊の窓から、中庭を見下ろして、ミラの足が止まった。
庭の隅、木立の陰に、恰幅のいい影があった。宰相だ。その傍らに、二人の男が控えている。一人は、筆跡官の黒い法衣。もう一人は、書物を抱えた書記官。三人は、額を寄せ、低い声で何かを話し込んでいた。宰相の指が、書記官の抱えた書物の背を、とん、と叩く。
筆跡官と、書記官。
ミラの背を、冷たいものが伝った。昨夜、疑いを植えつけてしまった男が、もう動きはじめている。記憶で崩せぬなら、次は、別の柱だ。ミラが、まだ一度も、本物のアデルの手で書いたことのない――筆跡という、逃れようのない証。
窓の外の三つの影は、やがて音もなく散っていった。ミラは、冷えた指を握りしめた。庭で灯りかけた温もりは、もう、どこにも残っていなかった。




