第十一話 王の私室には、鎧を脱いだ人がいる
第十一話 王の私室には、鎧を脱いだ人がいる
王の私室は、玉座の間とはまるで違う場所だった。
燭台の灯が、積み上げられた書物と羊皮紙の山を、柔らかく照らしている。乾いた紙と、蜜蝋と、かすかな墨の匂い。政務の書に埋もれた卓の向こうで、王は上着の前を寛げ、片手で目頭を揉んでいた。玉座で見る、感情を抜き取った氷の王ではない。疲れた、一人の男だった。
(無防備だわ。こんな顔を、見せて)
ミラは、入口で足を止めた。ここは、いちばん気を許してはいけない相手の、いちばん柔らかい場所だ。近づけば近づくほど、この人の芯に触れてしまう。触れれば、離れがたくなる。
「そこに、立っているつもりか」王が、目頭から手を離した。「茶は、自分で淹れろ。人払いをした。毒見も、侍女もいない」
ミラは、卓の隅の湯沸かしへ手を伸ばした。取っ手に指を通し、もう片方を底へ添える。慣れた手つきだった。下働きのころ、女主人の茶を、毎朝こうして淹れていた。琥珀色の湯が、二つの器に満ちる。ふと顔を上げると、王が、その手つきを、じっと見ていた。
「令嬢が、そんなに手際よく茶を淹れるとはな」
ミラの指が、一瞬、止まった。しくじった。公爵令嬢は、自ら茶を淹れる手つきを、身体に持たない。
「北では、侍女の手が足りませんでしたの」ミラは、真実の隣へ、そっと嘘を寄せた。北の下働きに、侍女などいるはずもない。けれど、器を差し出す手は、震えなかった。「自分のことは、自分でするのが、いちばん早うございます」
「そうか」王は器を受け取り、口をつけた。「旨い。侍女の淹れる茶より、よほど」
その一言に、ミラの胸が、勝手に軋んだ。喜んではいけない。この人が旨いと言ったのは、下働きの淹れた茶だ。アデルハイトではなく、ミラの。けれど、それを喜べば喜ぶほど、偽物の罪が、重くなる。
同時に、ミラは、王の言葉の一つずつを、そっと量っていた。この人は、どこまで気づいているのか。「令嬢が、そんなに手際よく」という一言は、ただの感心か。それとも、綻びを見つけて楽しんでいる罠か。ミラは、王の声の温度と、器を持つ指のたたずまいを読んだ。罠を張る者の声には、獲物が引っかかるのを待つ、わずかな前のめりがある。けれど王の声に、それはなかった。ただ、疲れた男が、旨い茶に、素直に息をついている。気づいているのかもしれない。けれど、暴くつもりは、今はない。そう読めた。読めたことに、ほっとして、そのほっとした自分に、また胸が痛んだ。
二人は、しばらく、とりとめのない話をした。
北の冬の長さ。宮廷の食事の味気なさ。王が子供のころ、書庫に隠れて叱られた話。政の匂いのしない言葉が、燭台の灯の下を、ゆっくりと流れていく。
「不思議だ」ふいに、王が言った。器を卓に置く、小さな硬い音がした。「そなたと話していると、言葉を選ばずに済む。宮廷の者は皆、私の顔色を窺って喋る。私が何を言わせたいかを、先回りして口にする。そなたは、しない」
「わたくしは、陛下が何をお望みか、分かりませんもの」ミラは、正直に言った。「分からないから、思ったことしか、申し上げられません」
「それだ」王の目が、まっすぐにミラを捉えた。「それが、いい。そなたには、私の話ができる。……久しく、そういう相手が、いなかった」
私の話ができる。
その言葉が、ミラの胸の奥に、灯りと棘を同時に落とした。この人は今、たった一人の相手として、ミラを選びかけている。けれど、その相手の名は、偽りだ。この信頼が深まるほど、真実が露見したときの、この人の傷が深くなる。ミラは、器を持つ手に、力を込めた。応えたい気持ちと、応えてはならない理性が、胸の中で軋み合っていた。
深夜、居室に戻ると、クラーラが灯を細めて待っていた。
ミラは、努めていつもの顔を作ろうとした。けれど、鏡台の前に座ったとき、その顔が、うまく作れなかった。喉の奥が、熱い。目の縁が、じわりと滲む。
「泣いておいでですか」クラーラの声がした。
「泣いてなど」ミラは、慌てて目元を拭った。「……ただ、あの方が、わたしを信じてくださるのが、こわいのです。信じられるほど、裏切っている気がして」
クラーラは、しばらく黙っていた。いつもなら、「感傷は綻びのもとです」と切って捨てるはずだった。けれど、この夜は違った。氷の教官の手が、そっと、ミラの肩に置かれた。
「……お嬢様も」クラーラの声が、低く沈んだ。「同じことを、仰いました。信じられるのが、こわい、と。あの方も、この宮廷で、ずっと一人でしたから」
クラーラの指が、ミラの肩で、わずかに震えていた。この氷の女もまた、亡き主を悼み、その身代わりを守ろうとして、たった一人で耐えているのだ。ミラは、鏡の中のクラーラを見た。道具と、それを使う教官。二人の間にあったはずの冷たい線が、この夜、少しだけ、溶けていた。
「クラーラ」ミラは、小さく訊いた。「お嬢様は、本物のアデルさまは、どんな方だったの。あなたが、それほど守りたいと思うほどの」
クラーラの手が、肩から離れた。答えるまでに、ひと呼吸あった。
「おやさしくて、聡くて、それゆえに、たった一人でお苦しみになった方です」抑揚を取り戻そうとして、取り戻しきれない声だった。「あなたに、少し似ておいでです。だから、わたしは」そこで、言葉が途切れた。だから、なんだというのか。クラーラは続けず、燭台の芯を、指先で短く切り詰めた。灯が、ふっと細くなる。それ以上は、訊くなという合図だった。ミラは、その背に、口をつぐんだ。
未明、眠れぬまま横たわるミラの枕元へ、クラーラが再び来た。
燭台の灯が、その顔を下から照らす。声は、いつもの抑揚のなさに戻っていた。
「一つ、お伝えしておかねばなりません。近く、あなたは重要な公文書に、正式な花押を求められます」
ミラは、身を起こした。
「宰相オルグレン侯爵が、そう仕向けたのです」クラーラは続けた。「舞踏会の記憶では、崩せなかった。ならば次は、専門の筆跡官に、あなたの署名を照合させる算段です。あの一夜の書状とは、わけが違います。今度は、公の場で、専門家の目が、一筆ずつ検めます」
窓の外は、まだ暗かった。ミラは、灰の残る自分の指を、闇の中で見つめた。逃れようのない証が、また一つ、こちらへ牙を剝こうとしていた。




