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バレたら処刑される偽物の妃ですが、冷酷と噂の陛下が私だけを離してくれません  作者: ヲワ・おわり


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第十二話 その一画に、専門家の目が宿る

第十二話 その一画に、専門家の目が宿る


 公文書の間は、しんと冷えていた。

 高い天井の下、壁一面に古い記録の棚が並んでいる。羊皮紙と、黴と、鉄錆に似たインクの匂いが、身体の芯まで染みてくる。長い卓の中央に、ミラは座らされていた。前には、王家の紋を戴いた一枚の公文書。北方の領地に関わる、正式の裁可状だという。その末尾に、アデルハイトの花押を。

 そして、卓の向かい。

 黒い法衣の筆跡官が、革の帳面を、うやうやしく開いた。過去の、本物のアデルの花押を綴じた、花押帳だった。何十という署名が、頁ごとに整然と並んでいる。この男は、これから、ミラの書く一筆を、その一つ一つと照らし合わせる。

(専門家。声の温度も、目の動きも、読ませない相手)

 筆跡官は、書記官とも宰相とも違った。感情がない。ただ、線を見る。線の角度、太さ、筆の速さ。人ではなく、字だけを見る目だった。部屋の隅には、宰相の姿もあった。慇懃な笑みを浮かべ、壁際の椅子に腰かけて、じっとこちらを見ている。

「その前に」ミラは、静かに口を開いた。「わたくしの、以前の花押を、確かめてもよろしいかしら。久しく正式な書に署名しておりませんの。恥ずかしい字を、王家の記録に残してはなりませんもの」

 もっともらしい口実だった。筆跡官は一礼し、花押帳を、ミラのほうへ滑らせた。

 ミラは、頁を繰った。懐かしむ表情を貼りつけたまま、その目は、字を追ってなどいなかった。盗んでいた。一画ごとに。


 どこを見ている。

 ミラは、筆跡官の視線の落ちる先を、睫毛の下で追っていた。この男が、照合で最も重んじる一点は、どこか。それが分かれば、そこへ、限られた集中を注ぎ込める。

 筆跡官の目は、署名を検めるとき、決まって二か所で止まった。名の二画目の、留め。そして、末尾の払いの、抜き際。角度でも、太さでもない。筆が止まる一瞬と、紙を離れる一瞬。人の癖が、いちばん抜けにくい場所だ。

(そこか)

 ミラは、花押帳の中の、留めと払いを、目に焼きつけた。二画目の留めは、ほんのわずか、下へ沈んでから止まる。払いの抜き際は、右上へ、細くはねる。他は、多少崩れても構わない。だが、この二点だけは、寸分たがえてはならない。

「ありがとう。もう、結構です」

 ミラは花押帳を返し、羽ペンを取った。インク壺に浸し、穂先を縁でしごいて、余分な滴を落とす。呼吸を、整える。頭の中では、今しがた焼きつけた留めと払いが、まだ生きて動いていた。

 書きはじめる。

 左下から、一画目。二画目、ここだ。筆をわずかに下へ沈め、それから、止める。心臓が、耳の奥で鳴っていた。三画、四画。そして、末尾の払い。抜き際を、右上へ、細く。

 ペンが、紙を離れた。

 筆跡官が、書いたばかりの花押へ、顔を寄せた。花押帳を隣に並べ、透かし、光にかざす。留めを見る。払いを見る。その無表情な横顔から、ミラは目を逸らさなかった。膝の上で、両の手を、きつく組む。爪が、手のひらに食い込んだ。

 筆跡官の指が、二画目の留めを、そっとなぞった。ミラの息が、止まる。そこだ。いちばん、力を注いだ一点。もし、下へ沈む深さがわずかでも違えば、この男は気づく。壁際の宰相が、椅子の上で、身を乗り出したのが、視界の隅に映った。老臣は、筆跡官の口が「相違あり」と動く、その一言を待っている。待って、この場で、偽物の首に縄をかけるつもりだ。

 筆跡官の眉が、ぴくりとも動かない。長い、長い沈黙だった。指が、今度は末尾の払いへ移る。抜き際の、細いはね。そこも、寸分たがえず写したはずだ。けれど、はずだ、でしかない。ミラの手のひらで、爪が、皮膚を破りそうになる。

「……相違、ございません」

 低い声が、部屋に落ちた。ミラは、肺の底に溜めた息を、少しずつ、逃がした。壁際で、宰相の笑みが、ほんのわずか、固くなったのが見えた。


 退出のとき、廊下で、王が待っていた。

 筆跡官の照合を、扉の外から聞いていたのだろう。ミラが礼を取ると、王は、その手を、ふいに取った。組んでいた指を、ほどくように。手のひらの、爪の痕を、王の目が見ていた。

「なぜ、そうまでして」王の声は、静かだった。「震える手で、命を賭けてまで、あの女であろうとする。なぜだ」

 ミラは、答えられなかった。

「私の父は」王は、ミラの手を握ったまま、遠くを見た。「私が信じたかった者たちに、囲まれて死んだ。皆が病だと言った。私だけが、そうではないと知っていた。……証を、探した。何年も。だが、掴めなかった。嘘は、いつも、私の一歩先で、証拠だけを消していく」

 落ち着いた声の底に、癒えない傷が沈んでいた。ミラは、その手の、かすかな力を感じた。氷血の王が、偽物の女の手を、まるで、溺れかけた者が縄を掴むように、握っている。

「わたくしは」ミラは、真実の隣を、必死に探した。「わたくしは、ただ、生き延びたいだけです。けれど、陛下。あなたが、嘘を憎むお気持ちだけは、嘘ではないと、信じております」

 核心には、触れなかった。触れずに、本心だけを、差し出した。

 王は、しばらくミラの手を見つめていた。何かを言いかけて、やめる。この人は、目の前の女が偽物だと、もう分かっている。分かっていて、なお、なぜ暴かないのか。ミラは、その理由を、初めて、うっすらと悟った。この人は、嘘を暴くことに、疲れているのだ。父を奪った嘘を追い続けて、証を消され続けて。だから、たった一つ、自分から本当を差し出してくる女を、暴きたくないのかもしれない。壊してしまうのが、惜しいのかもしれない。

 王は、握っていた手を、そっと放した。

「妙な女だ」背を向けながら、王は言った。「偽りの中に、たった一つ、本当を混ぜてくる。その一つが、私には、いちばん効く」


 夕刻、居室へ戻ると、クラーラが顔色を変えて立っていた。

「妃殿下」その声が、いつになく硬い。「宰相オルグレン侯爵が、お嬢様の――アデルさまの、私室の封印を、解こうとしています」

 ミラの背を、冷たいものが伝った。封印された私室。本物のアデルが、最後に暮らした部屋。そこに、何がある。宰相が、記憶でも筆跡でもなく、その部屋へ手を伸ばすのは、なぜか。

 窓の外で、秋の日が、燃え落ちる炭の色で、静かに暮れかけていた。ミラは、まだ王の手の温もりの残る指を、そっと握りしめた。宰相は、記憶を捨て、筆跡を捨て、今、もっと深いところへ手を伸ばそうとしている。その部屋には、きっと、触れてはならない何かが眠っている。


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