第十三話 礼の形には、心が隠れている
第十三話 礼の形には、心が隠れている
作法の間の朝は、いつもの張り詰めた冷気で満ちていた。
ミラは、マチルダの前で、扇の開閉を繰り返していた。手首の返し、骨の鳴らし方、開く速さ。この数日で、指が形を覚えていた。マチルダの杖は、床を打たない。打たれないことが、及第の証だった。
ふいに、マチルダが、その稽古を止めた。
「およしなさい」
ミラの手が、扇を開いたまま、宙で止まる。何か、間違えただろうか。背筋を冷たいものが伝いかけたとき、マチルダは、皺の刻まれた目を、わずかに細めた。
「あなたは、恐れながら、折れませぬな」
思いがけない言葉だった。ミラは、扇を閉じることも忘れて、老いた礼法師を見た。
「北から戻られたころ、あなたの礼は、粗く、継ぎ目だらけでした。わたくしは、幾度も直しました。直すたびに、あなたは、必ず翌朝には移してきた。震える手で、泣きそうな顔で、それでも一度も、稽古を投げなかった」マチルダの声は、床を打つ杖のように硬いままだった。けれど、その硬さの底に、初めて、温いものがにじんでいた。「以前のあなたは、違いました。叱れば、拗ねて。直せば、侍女に当たって。……こう申しては失礼ですが、今のあなたのほうが、わたくしは、好きです」
ミラは、返す言葉を、すぐには持てなかった。
この宮廷で、面と向かって「好きだ」と言われたのは、初めてだった。しかも、いちばん厳しい、礼法の番人から。喉の奥が、じわりと熱くなる。
「礼というものは」マチルダは、卓の上の茶器を、静かに手に取った。指の運びが、流れる水のように淀みない。「ただの形ではありません。この器を持つ手の角度一つにも、相手を敬う心が、宿っております。形だけを写す者は、いつか綻びます。けれど、心を込めて写す者は、形が多少粗くとも、不思議と、人を打つのです」
形の裏の、心。
ミラは、その言葉を、胸の奥で転がした。これまで、作法を「盗む型」としか見てこなかった。バレないための、鎧として。けれど、この老いた師は、形の一つずつに、人を敬う心が宿っていると言う。ミラは、自分の手の中の扇を、初めて、鎧ではないものとして見た。
その言葉が、なぜか、ミラの胸を刺した。心を込めて写す者。ミラが、この五十日、必死にやってきたことは、心を殺して、他人の形だけを盗むことだった。バレないために。生き延びるために。けれど、いつからか、ミラは、王の淹れた茶を旨いと思い、クラーラの震える指に胸を痛め、この老いた師の厳しさに、確かに支えられていた。盗んだ形の中に、いつのまにか、自分の心が、宿りはじめていた。
「精進いたします」ミラは、深く礼をした。目線を先に、首は最後に。今日のその礼には、恐れだけではない、何かが、確かにこもっていた。
マチルダの杖は、鳴らなかった。老いた師の口の端が、ほんのわずか、和らいだ。ミラは、この氷の宮廷に、小さな、けれど確かな居場所を、一つ得た気がした。偽物として立ったこの場所で、ミラという娘のままでいられる、たった一つの隅を。
昼、ミラは、アデルの私室の遺品整理を、自ら願い出た。
宰相が封印を解こうとしているなら、その前に、中を検めておかねばならない。名目は、いくらでも立った。故人の遺品を、妃たる自分が改めるのは、道理に適っている。クラーラを伴い、ミラは、久しく閉ざされていた部屋へ入った。
黴と、乾いた花の匂いがした。本物のアデルが、最後に暮らした部屋。寝台には、白い布がかけられ、化粧台の鏡は、布で覆われていた。時が、止まっている。
ミラの目が、化粧台の前で、止まった。
(……ここ、おかしいわ)
化粧台の、右の引き出し。その下の、板の合わせ目。埃の積もり方が、ほかと違った。他の場所には、指一本ぶんの埃が均等に積もっている。けれど、その合わせ目の周りだけ、埃が、わずかに擦れて薄い。近ごろ、誰かが触れた跡だ。ミラは、そっと板を押した。かたり、と、二重底の気配がある。
「妃殿下」クラーラの声が、鋭くなった。「おやめください。そこは」
「クラーラ」ミラは、振り返らずに言った。「あなた、知っているのね。ここに、何かあることを」
クラーラは、答えなかった。答えないことが、答えだった。ミラは、化粧台の裏の隠し引き出しに、指をかけた。けれど、そこには、頑丈な封印の蝋が、押されていた。今、この昼間に、こじ開ければ、音がする。人が来る。
「今は、だめ」ミラは、指を離した。「でも、宰相さまが解く前に、わたしが先に見なければ。……ここに眠っているものが、本物のアデルさまの、何かなら」
クラーラの顔が、青ざめていた。止めたいのに、止めきれない。その葛藤が、氷の侍女の横顔に、はっきりと浮かんでいた。この人は、この引き出しの中身を、知っている。知っていて、ミラに見せたくないのだ。
なぜ。ミラは、クラーラの目を、そっと読んだ。恐れ。それも、宰相を恐れる目とは違う。もっと、深いところが痛む目だった。開けてしまえば、亡き主の最後の秘密まで暴いてしまう。それを、怯えている目だった。
「クラーラ」ミラは、声を落とした。「わたしは、あなたを困らせたいのではないの。ただ、宰相さまが、なぜこの部屋を狙うのか。それを知らなければ、わたしは、次にどこから刺されるか、分からない。本当に守りたいなら、教えて」
クラーラは、唇を、きつく結んだ。答えの代わりに、覆われた鏡の布を、そっと直した。亡き主の顔が映るはずだった、その鏡を。それ以上は、何も言わなかった。
私室を出て、廊下を戻るとき、ミラの足が、また止まった。
私室へ続く角の、柱の陰。そこに、見慣れぬ男が二人、立っていた。宰相の紋を襟に留めた、下働きの体だ。私室の扉のほうを、じっと見張っている。宰相の手の者が、もう、この部屋を囲みはじめていた。
時間が、ない。
ミラは、冷えた指を握りしめた。今夜だ。この見張りが、夜の闇に紛れる、そのわずかな隙に、あの封印を解く。宰相より、先に。本物のアデルが、あの二重底に遺したものを、この目で、確かめる。
窓の外で、秋の日が、また一つ、暮れかけていた。




