第十四話 破り取られた頁の、その先に
第十四話 破り取られた頁の、その先に
深夜の私室は、墨を流したように暗かった。
ミラは、灯りを持たなかった。灯せば、廊下の見張りに気取られる。窓から差す、細い月あかりだけを頼りに、化粧台の前へ、忍び足で近づいた。黴と乾いた花の匂いが、昼より濃く、闇に沈んでいる。
廊下では、宰相の手の者が、見張りに立っている。ミラは、扉の隙間から、その足音を、ずっと数えていた。二人は、交代で廊下を往復する。片方が奥へ歩き、戻ってくるまで、およそ、五十を数える間。その、五十の隙。それだけが、ミラに与えられた時間だった。
昼のうちに、ミラは、この五十の間合いを、幾度も数えて確かめていた。遺品整理を装って部屋に残り、廊下の往復の拍を、胸の内で刻んだ。一、二、三。奥へ向かう足音。二十五で、いちばん遠くなる。それから、戻ってくる。四十八、四十九、五十。扉の前を、通り過ぎる。見張りは、退屈しのぎに、時おり早足になり、時おり立ち止まる。だから、五十きっかりは信じない。ミラが自分に許した猶予は、四十だった。四十を数える間に、封印を解き、日記を取り、板を戻して、身を隠す。
足音が、遠ざかる。
一、二、三。ミラは、化粧台の裏の封印へ、指をかけた。蝋は、思いのほか固い。爪を立て、そっと、剝がしにかかる。焦れば、割れて音がする。ゆっくりでは、四十が尽きる。ミラは、下働きのころ、割れやすい皿を洗った、あの指の力加減を思い出した。強すぎず、弱すぎず。十五、十六。指先が、しびれる。蝋が、みし、と小さく鳴いて、剝がれた。
二重底の板が、静かに滑る。二十二。
その底に。
一冊の、古びた日記が、あった。
ミラは、それを胸に抱え、寝台の陰へ身を伏せた。
廊下の足音が、戻ってくる。ミラは、息を殺した。月あかりの下で、震える指が、日記の頁を繰る。細く、右へわずかに傾いだ字。忘れもしない。何度も盗み見て、この手に写した、本物のアデルの筆跡だった。
頁の多くは、他愛のない日々の記録だった。庭の薔薇。侍女との会話。北の空の色。字は、丁寧で、伸びやかで、幸せそうだった。ミラは、その字を目で追いながら、胸が締めつけられた。ここに書かれているのは、確かに生きて、笑って、恋をしていた、一人の娘だ。ミラが顔を借り、名を借りている、その本物の娘の、声だった。
けれど、後半に近づくにつれ、字が、乱れはじめる。伸びやかだった筆が、細く、鋭く、怯えるように震えていく。
「あの方が、すべてを仕組んだ」
ミラの指が、その一行で、止まった。
「わたしは、あの方の道の、邪魔なのだ。だから、消される。事故に見せかけて。誰も、疑わぬように」
心臓が、耳の奥で鳴った。事故。消される。アデルは、自らの死を、予感していた。いや、予感などではない。誰かが、この令嬢を、殺そうとしていた。「あの方」が。事故に、見せかけて。
(アデルさまは……病でも、事故でもなかった)
ミラは、頁を繰る手を速めた。「あの方」が誰なのか。証は、どこにあるのか。けれど。
次の頁が、なかった。
破り取られていた。根元から、乱暴に。決定的な一行があったはずの数頁が、ごっそりと、抜き取られている。残っているのは、真実の入口だけ。その先の、名も、証も、誰かの手で、消されていた。
ミラは、破られた頁の跡を、指でなぞった。ぎざぎざとした紙の縁が、指の腹に、鋭く触れた。誰かが、慌てて、乱暴に、引きちぎった跡だ。真実を、闇に葬るために。
この令嬢は、陥れられた。事故ではなく、病でもなく、誰かの手で。日記の最後の頁で、アデルは、それを書き遺そうとした。誰にも届かないと知りながら、それでも、書かずにいられなかったのだ。自分は、殺される。誰かに。事故に見せかけて。その、たった一人で抱えた恐怖の重さが、震える筆の一画ずつから、ミラの胸へ、まっすぐ流れ込んできた。
そして、その誰かは、真実を握ったまま、今もこの宮廷にいる。ミラの胸の底で、何かが、静かに、形を変えた。これまで、ただ生き延びるために、震えながら繕ってきた。バレないように、綻びを隠すように。けれど今、別の火が、灯った。
この、顔も名も奪われて殺された令嬢の、無念を晴らしたい。偽物のわたしが、本物のために。生き延びるだけの日々に、初めて、自分で選んだ目的が、生まれた瞬間だった。
足音が、止まった。
廊下の五十の数が、乱れている。ミラは、はっと顔を上げた。片方の見張りが、往復をやめ、扉の前で、立ち止まっている。誰かが、来た。
扉の外で、低い話し声。ミラは、日記を胸に、寝台の陰から、音もなく身を起こした。窓へ。細い月あかりの下、忍び足で、来た道を戻る。扉が、軋みながら、開きはじめる。あと、数歩。
廊下へ通じる小扉を、するりと抜けたとき、暗がりで、手が、ミラの腕を掴んだ。
「こちらへ」
クラーラだった。ミラを物陰へ引き込み、押し殺した声で告げる。宰相の手の者が、今しがた、私室へ踏み込んだのだと。間一髪だった。
「クラーラ」ミラは、胸の日記を握りしめた。「破り取られた頁は。あの、決定的な頁は、どこ」
クラーラの目が、闇の中で、揺れた。答えるまでに、長い、ためらいがあった。
「……あれは、とうに」声が、掠れた。「宰相オルグレン侯爵の、手の中です」
ミラの背を、氷が滑り落ちた。
「クラーラ。あなた、初めから、知っていたのね」ミラは、闇の中でその横顔を見た。「日記のことも。破られた頁のことも。……お嬢様が、殺されたことも」
クラーラは、答えなかった。けれど、闇の中で、その肩が、小さく震えていた。この氷の侍女は、亡き主が陥れられたと知りながら、証を奪われ、何もできぬまま、身代わりの娘に作法を叩き込むしかなかった。たった一人で、その重すぎる真実を、抱え続けてきたのだ。
真実の入口は、この手にある。けれど、その先の、名と証を記した頁は、本物を陥れた張本人が、握っている。アデルを殺した者が、アデルの遺した告発を、切り札として、隠し持っている。奪い返さなければ、何も証せない。けれど、それは、宰相の懐へ、自ら手を差し入れることだ。
廊下の奥で、宰相の手の者の、荒い足音が、いくつも響いていた。ミラは、胸の日記を、強く抱きしめた。震えは、もう、恐怖だけのものではなかった。




