第十五話 その人は、道具を見る目をしない
第十五話 その人は、道具を見る目をしない
公爵グレゴールの書斎は、武具と書物の匂いがした。
磨かれた剣が壁に掛かり、その下に、古い戦記の並ぶ棚がある。窓は狭く、光は乏しい。北の辺境を長く治めてきた武人の部屋だった。ミラを、この王都の別邸へ呼びつけたのは、当のグレゴールだった。
ミラは、扉の内で足を止め、礼を取った。この男の前で、気を抜いたことは、一度もない。灰にまみれた娘を、顔が似ているというだけで見出し、「断れば口を封じる」と脅して、身代わりに仕立てた男。アデルとして死ね。それが、お前の生きる道だ。あの、氷のような一言を、ミラは忘れていない。
「顔を、上げろ」
低く、重い声だった。ミラは顔を上げた。グレゴールは、卓の向こうから、じっとこちらを見ていた。その目が、ミラの顔を、順にたどっていく。目、鼻、唇。まるで、そこに、別の誰かを探すように。
沈黙が、長すぎた。
(何を、見ているの)
武人の目は、ふつう、道具を値踏みするように、ミラを見た。使えるか、壊れていないか。それだけだった。けれど今日の眼差しは、違う。もっと、痛みをこらえるような、遠いものを慈しむような。ミラは、その視線の質の違いに、背筋がざわつくのを感じた。
「日記を、見つけたそうだな」
ふいに、グレゴールが言った。ミラの心臓が、跳ねる。もう、伝わっている。
「深入りするな」武人の声は、低いままだった。「あれは、触れてはならぬものだ。宰相オルグレンが、なぜあの部屋を狙うと思う。あの男は、証を握っている。お前が動けば、次に事故に見せかけて消されるのは、お前だ」
「わたくしが消えても」ミラは、静かに言い返した。「公爵さまは、また次の身代わりを、お立てになるのでしょう」
「違う」グレゴールの声が、初めて、荒くなった。すぐに、抑える。「そうではない。もう、誰も、失わせぬために言っている」
その言い直しに、ミラは、確かに聞いた。この人は、身代わりを惜しんでいるのではない。ミラという娘そのものを、失いたくないと言っている。
「では、公爵さまは」ミラは、声を抑えて訊いた。「アデルさまが、陥れられたと、ご存じだったのですか。ご存じで、真実を、伏せてこられたのですか」
グレゴールの、こめかみが、わずかに震えた。石を刻んだ武人の無表情に、初めて、罅が入った。
「……私にできたのは」声が、掠れた。「娘の顔を持つ者を、もう一人、死なせぬことだけだった」
娘の顔を持つ者。
その言い方に、ミラは、引っかかった。「身代わり」でも「駒」でもなく、娘の顔を持つ者。ミラ自身の顔に、何か特別な意味があるかのような、そんな響きだった。
ミラは、グレゴールの声を、一語ずつ量った。下働きの十八年で磨いた、たった一つの目で。この武人は、娘のアデルを陥れられ、その死すら隠して、身代わりの娘を仕立てた。冷徹な男だ。国と家のためなら、人ひとりの死も、道具として使う。けれど今、ミラを見るこの目には、道具を見る乾いた光がない。娘を亡くした父が、その面影を持つ者を前に、こらえきれずに滲ませる、湿った光がある。ミラは、人が本気で誰かを悼むときの目を、知っていた。下働きの仲間が死んだとき、女主人でさえ、こんな目はしなかった。この人は今、本気で、誰かを悼んでいる。それが、亡き娘なのか、それとも、目の前のミラ自身なのか。
グレゴールは、言い過ぎたと気づいたように、口を閉ざした。けれど、こちらを見る目だけは、逸らさなかった。逸らせない、というふうに。
この人は、何かを隠している。ミラは、確信した。宮廷の陰謀とは、別の何かを。ミラ自身に、関わる何かを。
書斎を辞して、別邸の廊下を戻るとき、ミラはクラーラを問い詰めた。
「クラーラ。公爵さまは、なぜ、あんな目でわたしを見るの。道具を見る目じゃなかった。もっと……もっと、身内を見るような目だったわ」
クラーラの足が、一瞬、止まった。
「気のせいでございます」抑揚のない声だった。けれど、その返答は、あまりに速すぎた。考える間もなく、否定が出た。知っている者が、隠すときの速さだった。
「わたしと、アデルさまは」ミラは、廊下の窓に映る、自分の顔を見た。「どうして、こんなに似ているの。顔だけじゃない。あの肖像の、幼いころの癖まで。他人の空似で、こんなことが、あるものかしら」
「妃殿下」クラーラの声が、硬くなった。「その問いは、危のうございます。今は、宰相のことだけをお考えください」
はぐらかされた。けれど、はぐらかしたという事実が、答えだった。もし本当に、ただの偶然の他人の空似なら、クラーラは笑って、そう言えばいい。それを言わずに、口をつぐむ。その沈黙が、ミラの直感を、確かなものに変えていく。
窓に映る顔を、ミラは、じっと見つめた。母の顔さえ覚えていない、孤児の娘。灰と石鹸の匂いの中で育った、名もない下働き。その顔が、なぜ、北の公爵令嬢と、瓜二つなのか。なぜ、公爵は、道具のはずのわたしを、あんな目で見るのか。
謎が、二つに分かれた。一つは、宰相の陰謀。もう一つは――ミラ自身が、なぜアデルにこれほど似ているのか、という、出自の謎。二つは、どこかで、繋がっている気がした。まだ、その糸の端すら、掴めなかったけれど。
別邸を出ると、日が傾きかけていた。
門前で、王家の使いが、ミラを待っていた。差し出された一通の書状。開くと、短い一文だけが記されていた。「明日、城の外へ、馬を駆らぬか」。遠乗りの誘いだった。供も付けず、二人だけで、城壁の外へ。
ミラは、夕日に染まる書状を見つめた。宰相の疑い、日記の真実、出自の謎。抱えきれぬものが、日ごとに増えていく。近づいてはいけない相手のはずだった。惹かれてはいけないと、クラーラにも、自分にも、幾度も言い聞かせてきた。それなのに、この一文を見た胸だけが、どうしようもなく、高鳴っていた。
馬を駆る。城壁の外へ。あの人が、氷の宮廷を離れて、誰の目も気にせず息をする姿を、見てみたい。そう思ってしまう自分を、ミラは、止められなかった。書状を握る指が、まだ、こわばっている。けれど、そのこわばりの中に、恐怖とは違う熱が、確かに混じっていた。
明日、誰の目もない場所で、あの人と、二人きりになる。危ういほど近く。抗いようもなく、遠くへ行けないほど、近く。




