第十六話 ここでは、王でなくていい
第十六話 ここでは、王でなくていい
城壁の外は、風の匂いが違った。
刈り入れの終わった畑が、金色に枯れて広がっている。その先の丘まで、二頭の馬が、蹄の音を響かせて駆けた。誰の目もない。供の姿も、見張りの影もない。ミラは、久しぶりに、胸いっぱいに息を吸った。宮廷の香の匂いも、蜜蝋の匂いもしない。ただ、乾いた草と、土と、遠い秋の匂いだけがあった。
丘の上で、王が馬を止めた。
その横顔を見て、ミラは、息を呑んだ。氷の宮廷で見る、感情を抜き取った顔ではない。風に髪を乱され、目を細めて遠くを見るその顔には、年相応の、若い男の緩みがあった。
「ここでは」王が、風の中で言った。「王で、なくていい」
馬を降り、王は枯れ草の上に腰を下ろした。ミラも、少し離れて座る。二人の間を、風が渡っていく。
「子供のころ」王が、ぽつりと言った。「この丘まで、一人で馬を駆ったことがある。宮廷の誰も彼もが、私に嘘をつく。その顔を見るのが、たまらなくなってな」
「お一人で?」
「ああ。ここには、私に嘘をつく者がいない。草も、風も、私が王だろうと、知ったことではない」王は、枯れ草を一本、指で折った。「だから、ここが好きだ。今日は、一人ではないがな」
ミラの胸が、静かに軋んだ。この人は、たった一人で、こんな遠くまで、逃げてきていたのだ。誰も信じられない、氷の玉座から。
ミラにも、覚えがあった。下働きのころ、叱られて逃げ込んだ、洗い場の裏の物置。誰も来ないその暗がりだけが、ミラが息をつける場所だった。身分は、天と地ほども違う。それなのに、この人の逃げ場と、ミラの物置は、どこか、同じ匂いがした。誰にも見られずに、ただ、弱くいられる場所。
「陛下は」ミラは、風に紛れさせるように言った。「おさびしかったのですね。ずっと」
王は、答えなかった。ただ、遠くの空を見ていた。しばらくして、その口が、ゆっくりと開いた。
「なあ」風が、言葉を運んでくる。「本物か、偽物か。私は、もう、どうでもいいのだ」
ミラの、心臓が止まった。
「そなたが、北の令嬢であろうと、なかろうと。私が知りたいのは、そればかりではない。今、ここで、私の隣に座って、私をさびしいと言うそなた。……この、今ここにいるそなたを、私は、信じたい」
涙が、こみ上げた。ミラは、それを、必死にこらえた。こらえながら、思った。ずるい。この人は、ずるい。偽物だと知りながら、その偽物ごと、信じたいと言う。ミラが、いちばん言ってほしくて、いちばん言われてはいけない言葉を、この人は、風に乗せて、まっすぐに投げてくる。
わたしは、ミラです。灰にまみれて育った、名もない娘です。喉まで出かかった言葉を、ミラは、飲み込んだ。言えば、この束の間の丘は、崩れる。言えば、この人は、たった一人で守ってきた信頼を、もう一度、裏切られることになる。
だから、言えなかった。代わりに、ミラは、隣の王の手のすぐ近く、枯れ草の上に、そっと自分の手を置いた。触れはしない。触れる勇気は、なかった。けれど、指先と指先の間の、わずかな隙間に、二人の想いは、確かに宿っていた。風が、金色の草を撫でて渡っていく。この一瞬だけは、王でも、偽物でもない、ただの二人だった。ミラは、この時間を、生涯忘れないだろうと思った。忘れられないからこそ、これから先が、いっそう苦しくなると知りながら。
夜、居室に戻ると、クラーラが待っていた。
ミラの顔を、ひと目見て、クラーラは、何かを察した。丘で何があったのか、言葉にせずとも、この氷の侍女には伝わったらしい。長いこと、黙っていた。それから、燭台の灯を細め、静かに口を開いた。
「……お話しします。あの夜の、ことを」
ミラは、息を詰めた。
「二か月前の、夏でした」クラーラの声は、いつもの抑揚を、必死に保っていた。「お嬢様は、気づいてしまわれたのです。宰相オルグレン侯爵が、王家を意のままにするために、何を企んでいるかを。お嬢様は、それを、陛下にお伝えしようとなさった。その矢先でした。事故に見せかけて、お命を、奪われたのは」
クラーラの指が、震えていた。
「あの夜、お嬢様は、わたしにおっしゃいました。『クラーラ、こわいの。誰も、わたしの言うことを信じてくれない』と。わたしは、大丈夫だと申し上げました。陛下がきっと、お聞きくださると。その翌朝、お嬢様は、庭の池で、冷たくなっておられました。足を滑らせたのだと、皆が言いました。誰も、疑いませんでした。疑うことを、許されなかったのです」
燭台の灯が、クラーラの頬を、下から照らしている。その目に、涙はなかった。涙は、とうに涸れ果てたあとの、乾いた目だった。
「わたしは、侍女でありながら、何も、できなかった。お止めすることも、真実を訴えることも。証は、すべて宰相の手に落ちた。わたしにできたのは、お嬢様の顔を持つあなたを、せめて生き延びさせることだけ。ずっと、それだけが、罪滅ぼしのつもりでした」
ミラは、クラーラの手を、そっと取った。氷の教官と呼ぶにふさわしい、冷たい手だった。その手が、震えていた。
「あなたは、証人になれる」ミラは、静かに言った。「本物のアデルさまが、陥れられたことを知る、たった一人の証人に。……一緒に、晴らしましょう。お嬢様の、無念を」
クラーラの目が、揺れた。そして、初めて、深く、頷いた。道具とその教官だった二人が、この夜、同じ一つの目的に向かって、並んで立った。
クラーラが下がったあと、ミラは、窓辺に立った。
池で、冷たくなっていた令嬢。誰も、疑わなかった死。ミラは、闇に沈む中庭を見下ろしながら、その光景を、胸に描いた。会ったこともない、けれど自分と同じ顔をした娘が、たった一人で、誰にも信じてもらえずに、死んでいった。その無念が、今、ミラの胸に、重く根を張っていた。
冷えた夜気の向こう、中庭の暗がりに、影が動いた。宰相の紋を襟に留めた、手の者だ。私室のほうを、うかがっている。日記の件を、嗅ぎつけたのだ。
ミラは、窓の桟を握りしめた。反撃の覚悟が定まった、まさにその夜に、黒幕もまた、牙を研ぎはじめていた。あの令嬢を殺した手が、今度は、その顔を借りた偽物へ、伸びようとしている。けれど、ミラは、もう、ただ震えるだけの娘ではなかった。




