第八話 その手を取れば、嘘がひとつ増える
第八話 その手を取れば、嘘がひとつ増える
差し出された手は、思いのほか大きかった。
人垣を割って、王が中央へ進み出ていた。誰も、それを予期していなかった。氷血の王が、自ら舞踏に令嬢を誘う。広間のざわめきが、ふつりと途切れる。ミラの目の前に、節の目立つ手が、静かに向けられていた。
(この手を、取らなければ)
取れば、踊り出す。踏めば、北の公爵家の固有のステップを知らぬことが、この光の海のただ中で露見する。取らなければ、王の面目を衆目の前で潰す。どちらも、崖だった。ミラは、逃げ場を探すことをやめた。探しても、ないと分かっていた。
絹の手袋越しに、その手へ、自分の指を重ねる。
王の手が、そっと閉じた。荒れた指の感触を、絹が隔てている。ミラは、握られた手のわずかな温もりに、束の間、めまいがした。氷血の王と呼ばれる男の手は、その二つ名に反して、生きた人の熱を確かに持っていた。
「北の踊りは、忘れたか」
低く、王だけに聞こえる声だった。楽団の弦が、拍を刻みはじめる。人々が、床の縁へと退いていく。中央には、二人きりが残された。
最初の一歩で、ミラは終わりを覚悟した。
足が、どこへ動けばいいのか分からない。北の踊りの型など、一つも知らない。けれど、その瞬間だった。組んだ手のひらから、王の力が、ほんのわずか、右へ流れた。腰に添えられた手が、次の拍で、静かに引く。
(――教えている)
ミラは、息を呑んだ。王は、リードで正解の足運びを、一歩ずつ差し出していた。右へ流れる力は「右足を引け」。腰を引く手は「半歩下がれ」。言葉は一つもない。ただ、体の使い方だけで、知らぬはずのステップを、ミラの足へ流し込んでくる。
ミラは、それに全神経を注いだ。下働きのころ、女主人の帳面の付け方を盗み見て覚えたときと同じだ。相手が「見せている」型を、その場で自分の身体へ写し取る。王の力の向き、指先のわずかなタメ、視線が落ちる方向。そのすべてを読み、半拍遅れて、足を運ぶ。継ぎ目は、粗い。けれど、崩れてはいない。
次の旋回で、王の腕が、ぐいと引き寄せる。ミラの身体が、王の胸のすぐ前まで近づいた。革と、かすかな鉄の匂いがした。剣を佩く男の匂いだ。心臓の音が、自分のものか相手のものか、分からなくなる。旋回の間に、王の足がわずかに床を擦り、次に踏むべき位置を、影のように示した。ミラは、その影を追った。まるで、暗闇で先を行く者の足音だけを頼りに歩くように。
不思議だった。これほど至近で人に見られたら、いつもなら手が強張る。荒れた指を、隠したくなる。けれど今は、握られた手を、隠したいと思わなかった。この手は今、崖から落ちぬよう、しっかりと繋がれている。
「顔を、上げろ」王が囁いた。「俯くのは、踊りを知らぬ者のすることだ」
ミラは顔を上げた。至近に、王の顔があった。感情の温度を抜き取った、あの静かな目。けれど今、その奥に、抜き取りきれない何かが揺れている。ミラは、それを見てしまった。
(この人は、どうして庇うの)
偽物と、気づいているのか。気づいていて、なお、この手で守っているのか。分からない。分からないまま、ミラの胸の奥に、恐怖とは違う熱が灯った。灯してはいけない熱だと知りながら、消せなかった。王の体温が、絹越しに、まだ手のひらに残っている。
一曲が、終わろうとしていた。
弦の音が緩やかに解けていく。二人の足が、最後の型で止まる。王は、握った手をすぐには離さなかった。周囲の耳が届かぬ、その距離で、ふいに口を開いた。
「なぜ、あの女のふりをする」
問いではなかった。声には、詰める棘がなかった。ただ、独り言のように、静かに落とされた言葉だった。
ミラの心臓が、ひとつ、大きく鳴った。
あの女。本物の、アデル。この人は、目の前の女が別人だと、もう知っている。知っていて、なお、それを暴かず、庇い、こうして踊った。答えを探して、ミラの唇が、わずかに震える。けれど、言える言葉は一つもなかった。認めれば、死ぬ。否めば、この人に嘘を重ねる。喉の奥が、干上がっていた。
沈黙が、二人の間に降りた。楽団の余韻も、周囲のざわめきも、遠くへ退いていく。ミラは、この人が今、何を望んでいるのかを、必死に読もうとした。糾弾する目ではない。試す目でもない。ただ、答えを一つ、静かに待っている。まるで、どこにも味方のいない場所で、たった一人の相手に、真実を差し出してほしいと願うような。
その孤独に、応えたかった。応えれば、首が落ちると知りながら。
王は、答えを待たなかった。
握っていた手を、静かにほどく。それだけだった。追及も、糾弾もない。王は一礼し、身を翻して人垣の向こうへ戻っていく。マントの裾が、床の炎を払った。残されたミラの手のひらに、消えかけた温もりだけが、まだ宿っている。
(気づかれている。それでも、あの人は……)
その先を、ミラは考えられなかった。
広間の端へ、ミラは逃れた。
柱に半ば身を隠し、乱れた息を、悟られぬように整える。喉の渇きを潤そうと、給仕の運ぶグラスへ手を伸ばしかけて、その指が止まった。
人混みが、ゆっくりと割れていく。
その割れ目を縫って、恰幅のいい影が、まっすぐこちらへ歩いてくる。慇懃な笑みを顔に貼りつけた、老いた実力者。宰相オルグレンだった。姪の失点も、王の異例の庇いも、すべてを見届けた男が、今、自らの足で近づいてくる。
ミラは、伸ばしかけた手を、そっと引いた。今、グラスを持てば、指の震えを読まれる。この男は、イレーネのように感情で仕掛けてはこない。宰相の目は、書記官が帳簿を検めるときのそれだった。一つずつ、数を照らし、合わぬところを探す目。姪を差し向けて偽物を炙り出す遠回しの手を、もう捨てたのだ。自らの手で、直に確かめる気でいる。
「令嬢」宰相の声は、蜜のように滑らかだった。「少し、昔話でもいたしましょうか」
昔話。縁故の記憶。この宮廷で、ミラがもっとも持たぬもの。逃げ場のない柱の前で、ミラの背が、冷たい石に触れた。踊りの熱は、もう、どこにも残っていなかった。




