第七話 あの日を覚えていて、と微笑む刃
第七話 あの日を覚えていて、と微笑む刃
大広間は、昼を欺くほどの光で満ちていた。
天井から下がる無数の燭台。磨かれた床が炎を照り返し、絹とビロードの群れがその上をゆっくりと巡っている。楽団の調べに、笑い声とグラスの触れ合う硬い音が混じった。香水と蜜蝋の甘い匂いが、むっと肌にまとわりつく。
ミラは入口で足を止め、胸の内で息を整えた。
(見られている。この広間の、半分の目に)
一歩を踏み出す。マチルダに叩き込まれた歩幅で、床の炎を蹴らぬように。背は、恐れでは曲げない。値踏みする視線が、絹の背に次々と刺さってくる。ミラはそれを浴びながら、まず壁際の、柱の陰になる位置を目で探した。逃げ場ではない。四方を見渡せて、なおかつ背後を取られない場所。下働きが厨房で身につけた、身の守り方だった。
すれ違いざま、扇の陰で交わされる囁きが、耳の端を掠めていく。北から戻られてずいぶん静かになられた。以前はもっと華やかな方だったのに。病でも患われたのかしら。値踏みの言葉は甘く、その底に針が仕込まれている。ミラは聞こえぬふりで顎の角度を保った。針の一本一本が、本物のアデルと今の自分との差を測る物差しなのだと、背筋で感じながら。
その場所へ、たどり着く前だった。
「まぁ、アデルさま」
甘い声が、正面から近づいてきた。淡い薔薇色のドレスの令嬢だった。歳はミラと変わらない。整った顔に、隙のない微笑を貼りつけている。宰相の姪、イレーネ・オルグレン。
「あの日のこと、覚えていらっしゃる?」
いきなりだった。前置きもなく、罠の口が開いた。
「あの日、と申しますと」
ミラは微笑を返しながら、頭の隅で目まぐるしく計算していた。「あの日」がいつを指すか、この令嬢は言わない。言わずに、こちらが心当たりを口にするのを待っている。何かを答えれば、それが違えば「あら、お忘れになったの?」と刺してくる。
「いやですわ、お忘れになったの?」イレーネの睫毛が、ゆっくりと持ち上がった。「十二の春。北の離宮で、わたくしとあなたと、それからお二人の侍女で、湖のほとりへ抜け出しましたでしょう。あなた、白い小舟に乗りたいと駄々をこねて」
周囲の令嬢たちが、扇の陰でくすくすと笑いさざめく。話は、細部まで具体的だった。十二の春。北の離宮。白い小舟。ミラの知らない、本物のアデルの過去だ。
背に、汗がにじむ。頷けば、次に「あのとき溺れかけたのは、どちらでしたかしら」と刺してくるだろう。首を振れば、「まぁ、お忘れになるほど、わたくしとの日々は薄かったのね」と嘆いてみせる。どちらの道も、崖へ続いている。周りの令嬢たちは、その崖の縁で見物を決め込んでいた。イレーネが仕掛けたのは、勝ち負けのある尋問ではない。答えても答えなくても傷を残す、遊びとしての処刑だった。
(罠だ。でも、どこかに、本物が混じっている)
ミラは、イレーネの口ぶりを一語ずつ量っていた。作り話には、粗が出る。人は嘘をつくとき、細部を盛りすぎる。だがこの令嬢の声には、「湖のほとり」を言うときだけ、わずかな実感の温度があった。そこは、本当だ。本当に、二人はその湖へ行ったことがある。けれど「白い小舟に駄々をこねた」は、違う。そこだけ、語りが早口になり、目が泳いだ。イレーネ自身の願望が、記憶にすり替わっている。
ならば、突く場所は決まっていた。
「湖のほとりは、覚えておりますわ」ミラは静かに言った。事実の位置だけを、そっと認める。「けれど、小舟に駄々をこねたのは、わたくしではなくてよ。イレーネさま。あなたでしたでしょう」
イレーネの微笑が、止まった。
「わたくしは、水がこわくて、ほとりから動けませんでしたもの。あなたが『乗りたい、乗りたい』と、侍女の袖を引いて。覚えていらっしゃらない?」
ミラは、賭けをしていた。イレーネの「駄々」の記憶が本人の願望のすり替えなら、駄々をこねた子供は、イレーネ自身のはずだ。核心は知らない。知らないまま、相手が漏らした矛盾を、そっくり相手へ返した。
「そ、それは」イレーネの頬に、朱がのぼった。早口になる。「わたくしは、そのような、あなたが、あなたが先に」
「まぁ。お顔が赤いこと」年かさの夫人が、扇を口に当てて笑った。「イレーネさま、図星でいらっしゃる?」
広間の一角に、小さな笑いがさざめいた。今度は、ミラを嗤う笑いではなかった。
ミラは、胸の裡でそっと息を吐いた。勝ったのではない。ただ、相手の作り話の継ぎ目を、相手自身の口から縫い戻しただけだ。もしイレーネが「湖のほとり」まで嘘で固めていたら、この賭けは崩れていた。人は、本当のことを語るときだけ、声に体温が乗る。それを聞き分けられたのは、幸運だった。次も同じ手が効くとは限らない。
イレーネは唇を噛み、それ以上言葉を継げないまま、目だけで誰かを探した。人混みの向こう、恰幅のいい老臣、宰相オルグレンへ、助けを求めるように。
ミラは、その視線の先を、見逃さなかった。
柱の間に、宰相が立っていた。慇懃な笑みを顔に貼りつけたまま、こちらをじっと見ている。姪の失点を咎めるでもなく、ただ観察していた。舞台の役者を、値踏みする興行主の目だった。
そして、その斜め向こう。楽団の脇に据えられた席から、王がこちらを見ている。感情の温度を抜き取った、あの静かな目で。ミラがイレーネを退けた一部始終を、最初から最後まで、見ていたのだ。
(凌いだ。……でも)
ミラの背に、冷たいものが伝った。楽団の調べが、ふいに変わったのだ。談笑のための穏やかな旋律から、拍を刻む、はっきりとした舞踏の調べへ。人々がグラスを置き、広間の中央が、ゆっくりと空けられていく。
踊りだ。
記憶なら、口先で凌げた。作法なら、写して繕えた。けれど舞踏は――北の公爵家に固有のステップがあると、クラーラは言っていた。本物のアデルが幼いころから踏んできた足の運びを、ミラは一度も、教わっていない。
中央の空いた床が、処刑台のように白く光っていた。楽団の弦が、最初の一音を長く引く。人々の視線が、示し合わせたように、妃候補のもとへ集まってくる。誰が、最初にこの令嬢を舞踏へ誘うのか。ミラは、逃げ場のない光の海の中で、立ち尽くした。




