第六話 夜の回廊で、忠義が刃を向ける
第六話 夜の回廊で、忠義が刃を向ける
夜の回廊は、燭台の灯が届くところだけが橙に浮かび、その外は墨に沈んでいた。
舞踏会を明日に控え、ミラは仕立て直した衣装の最後の合わせを終えて、居室へ戻る途中だった。石の廊下は昼の熱をとうに失い、絹の靴を通して冷えが足の裏に上ってくる。角を曲がろうとして、ミラは足を止めた。
柱の影から、人が一人、音もなく前へ出てきた。
剣を佩いた、若い騎士だった。背が高い。無駄のない体つきの上に、忠実な犬のような目が乗っている。王の身辺を守る近衛の一人だと、クラーラの描いた宮廷の絵図で覚えていた。名は、ユリアン。
「妃殿下」
声は低く、けれど廊下の隅々まで届く硬さがあった。
「失礼を承知で、伺います」
ミラは、その一言で背筋の産毛が立つのを感じた。詫びを先に置く問いは、たいてい、いちばん危ういところを刺してくる。回廊には、二人のほかに人の気配がない。逃げ道を探す下働きの癖で、ミラの目は無意識に、来た廊下と、その先の闇を測っていた。
「なにかしら」
「北へ発たれる前、あなたは陛下の狩りに、一度だけ随行なさった。三年前の秋のことです」ユリアンの目が、まっすぐにミラを捉えていた。「あのとき、陛下が射損じた鹿を、あなたはどう仰いましたか」
(知らない。そんな狩りのことなど、一つも)
喉の奥が、乾いた。三年前。ミラはまだ、公爵領の洗い場で灰にまみれていた。本物のアデルが何を言ったかなど、知りようがない。頷いても、首を振っても、この男は見逃さないだろう。目の奥が、櫛を持つ侍女のそれとは違う。忙しなさがない。ただ、じっと、返事の一点を待っている。
ミラは、その目を見返した。
この男は、なぜこれを問うのか。宰相のように、王妃の座を巡って探っているのではない。イレーネのように、嫉妬で牙を剝いているのでもない。剣の柄に置かれた手。半歩引いた足。それらは攻撃の構えではなく、守りの構えだった。誰かを、庇うための。
ミラは、下働きのころに嫌というほど見てきた目を思い出していた。主人の犬。餌をくれる者のためなら、見知らぬ者に容赦なく吠える。だがその牙は、飼い主を害する気配にだけ向く。この騎士の目は、それと同じ色をしていた。ミラという女を憎んでいるのではない。ただ、王に近づく得体の知れないものを、嗅ぎ分けようとしている。
(この人が守りたいのは、王だ。わたしではなく、王を、疑わしい女から)
だとすれば、答えるべきは記憶ではない。
「覚えておりません」ミラは静かに言った。「三年前の狩りのことは、一つも。正直に申せば、覚えていないことのほうが、この頃は多いのです」
ユリアンの眉が、わずかに動いた。
「令嬢が、記憶にないと」
「取り繕えば、楽でしょうね。『ええ、あのとき陛下をお慰めしました』とでも。でも、そう申し上げて、あなたが次に何を問うてくるか。わたくしには分かりません。分からないものに、嘘は重ねられません」
真実の、隣に。作り話は軽い。ミラは、自分が本当に持っている手札だけを、卓に伏せて置いた。知らないことを、知らないと認める。それは綻びを晒すことだが、この男の前では、取り繕うことのほうがずっと危うい。
ユリアンは、しばらく黙っていた。
窓の外で、夜鳥が一つ、羽を鳴らして枝を移った。その音が消えるまで、騎士は動かなかった。やがて、剣の柄に置かれていた手が、そっと下ろされる。
「妙な方だ」
低い呟きだった。ユリアンは窓辺へ一歩寄り、格子の外の闇へ目をやった。横顔に、燭台の灯が斜めに落ちる。鎧の下から、汗と鉄の匂いがかすかに立った。一日中、王の背後に立ち続けた男の匂いだった。
「以前のあなたなら、こう仰った。『もちろん覚えておりますわ』と。淀みなく、美しく。俺のような者が問えば、鼻で嗤って侍女に追い払わせた」ユリアンの声が、少し低くなった。「陛下は、若くして玉座に就かれた。周りは、笑いながら嘘をつく者ばかりだ。俺は、その嘘から陛下をお守りするのが役目だ」
「お守りしたいのね。陛下を」
「俺は、それしか能がない」
飾らない一言だった。ミラは、その無骨な声の底に、王と同じ種類の孤独が沈んでいるのを聞き取った。信じられる者のいない王と、その王を守ることだけに己を賭けた騎士。二人は、同じ寒い場所に立っている。
「わたくしも」ミラは、つい、口を滑らせた。「……こわいのです。毎朝、目が覚めるたびに。今日は、何を間違えるだろうと」
言ってしまってから、ミラは唇を結んだ。素の「わたし」が出かかっていた。令嬢は、番犬にこんな弱音を吐かない。しくじった、と思った。
けれどユリアンは、その言葉を、意外なものを見るように受け止めていた。
「令嬢が、こわい、と」
「忘れてくださいまし。今のは」
「いや」ユリアンは首を振った。守りの構えは、もう解けていた。「陛下が、あなたを目で追う理由が、少しだけ分かった気がします。以前のあなたには、そういう顔がなかった」
ミラは答えなかった。答えれば、また綻ぶ。騎士は一礼し、闇の中へ戻っていく。足音は、来たときと同じく、まるでしなかった。
深夜、居室に戻ると、クラーラが燭台の灯を細めて待っていた。
灯芯の焦げる匂いが、狭い部屋にこもっている。ミラが回廊での一部始終を話すと、クラーラの手が、寝支度の衣を畳む途中で止まった。
「ユリアン卿を、味方に近づけたのは大きい。けれど」クラーラの声が沈んだ。「一つ、お伝えしておくことがあります。明日の舞踏会に、宰相オルグレン侯爵が、自ら足を運ばれます」
ミラの指先が、冷えた。
「あの方が、直々に」
「イレーネ様を送り込むだけでは、飽き足らなくなったのでしょう」クラーラは畳んだ衣を、静かに櫃へ納めた。「明日は、記憶も、作法も、そして――あの方の目そのものが、あなたを試します」
窓の外で、宮廷の夜を告げる鐘が、遠く一つ鳴った。ミラは冷えた指を、もう片方の手で包んだ。記憶と、作法と、そして人を見抜く目そのもの。明日、逃げ場のない大広間で、この身は三方から照らされる。灯りの下では、影は決して隠せない。眠らねば、と思う。眠れないと、分かっていた。




