第五話 鏡を映すように、わたくしは礼をする
第五話 鏡を映すように、わたくしは礼をする
作法の間は、朝の冷気で満たされていた。
磨き抜かれた床に、東の窓から白い光が長く伸びている。その光の中に、マチルダ夫人が背筋を伸ばして立っていた。歳は六十を越えているだろう。それなのに、その背には一分の丸みもない。組んだ手も、結んだ唇も、彫り出したように動かない。
(この人の前で、癖を出したら終わる)
ミラは入口で足を止め、礼を取った。目線を先に、首は最後に。ゆっくりと。
「よろしい」マチルダの声は、床を打つ杖のように硬かった。「では、歩いてご覧なさい。窓辺まで」
たった、それだけの指示だった。歩く。ただ、歩く。けれど下働きの歩き方は、貴族のそれとは違う。重心の置き方が違う。爪先の向きが、腰の高さが、腕の揺れが。ミラは一歩踏み出して、すぐにそれを悟った。
どうすればいい。
考える間もなく、マチルダが自ら手本を示すように、窓辺へ二歩、進んでみせた。
「淑女の背は、恐れでは曲げませぬ。こうです」
その二歩を、ミラは睫毛の下に焼きつけた。踵から爪先へ、体重が移る間合い。裾を蹴らないための、わずかな歩幅の抑え。腕は振らず、肘の内側を軽く締める。マチルダはそれを「見本」として見せたつもりだろう。ミラにとっては、盗む手本だった。
ミラは歩いた。今写し取ったばかりの型を、そのまま自分の身体に流し込む。踵から、爪先へ。裾を蹴らず。肘を締めて。鏡を映すように、目の前の手本をなぞる。
窓辺で立ち止まり、振り返る。マチルダは、しばらく黙っていた。杖の先が、こつ、と一度だけ床を突く。
「妙な子ですこと」皺の刻まれた目が、ほんのわずか、細くなった。「型は、粗い。継ぎ目が見える。けれど、直す速さが尋常でない。一度見せれば、二歩目には移している。あなたは、人を写すのがお上手ね」
褒められたのか、見抜かれかけたのか。ミラは判じかねて、ただ頭を下げた。写すのが上手い。それは、下働きが生き延びるための、ただ一つの才だった。主人の機嫌を写し、場の空気を写し、求められている顔を写す。褒め言葉のはずが、身の底を覗かれた心地がした。
「精進いたします」
「結構。その謙虚さだけは、昔と変わりませんね」
昔。マチルダは、本物のアデルの作法も見てきたのだ。同じ目で、今、偽物を見ている。ミラは、うなじが冷えるのを感じながら、深く礼をした。礼だけは、この数日で誰よりも繰り返した。繰り返した数だけは、本物に負けていないはずだと、自分に言い聞かせて。
昼過ぎ、ミラは公爵家から届いた遺品の整理を言いつけられた。
儀礼で用いる装身具を検分し、目録と照らすのだという。居室の隣の小部屋に、木箱がいくつも運び込まれていた。蓋を開けると、樟脳の匂いがふわりと立つ。中には、櫛や、髪飾りや、古い装飾の数々が、綿に包まれて眠っていた。本物のアデルが、身につけていたものたち。
クラーラが、傍らで目録を読み上げていく。ミラは一つずつ手に取り、照合していった。
その手が、一枚の小さな肖像で止まった。
幼い少女が描かれていた。五つか、六つ。北の公爵家の庭を背に、椅子に浅く腰かけている。アデルの、幼いころの姿なのだろう。ミラは、その顔を見つめた。見つめて、指先が冷たくなった。
似ている。当たり前だ。顔が似ているから、ミラはここにいる。けれど、似ているのは顔だけではなかった。首を少しかしげる癖。左手の親指を、そっと内側に握り込む手つき。それは、ミラ自身が、物心つく前から無意識にやっている仕草だった。誰に教わったわけでもない。叱られて直したわけでもない。ただ、気づけばいつも、そうしていた。
絵の中の少女が、同じ手をしている。
(どうして、こんなところまで)
顔なら、他人の空似ということもあるだろう。世に似た顔は三つあるという。けれど、癖は違う。癖は、血のように、教えられずに受け継がれるものではないのか。ミラは肖像を持つ手を、そっと裏返した。絵の裏に、小さな文字で何か書かれた跡がある。削り取られていた。爪でこそげ落としたように、乱暴に。
「クラーラ」ミラは、声を抑えて訊いた。「この肖像の、生まれた年は。裏に、何か書いてあったはずでしょう」
「目録には、ございません」クラーラの読み上げが、途中で止まった。目録の紙を繰る指が、不自然に速い。「妃殿下。手が止まっております。次へ」
いつになく、性急な声だった。ミラは肖像から目を上げた。クラーラは、こちらを見ていない。目録の一点を、じっと見つめている。見つめすぎている。
(この人は、知っている。わたしとアデルが、ただ似ているだけではないことを)
問いを重ねようとして、ミラは口を閉じた。今ここで踏み込めば、クラーラは貝のように閉じる。それが分かるくらいには、この数日で、この侍女のことを知った。
ミラは肖像を綿に戻し、蓋を閉じた。樟脳の匂いが、また立ちのぼる。けれど、指先の冷たさは、消えなかった。
夕刻、居室に戻ると、鏡台の上に一通の招待状が置かれていた。
夜会。舞踏会の、招きだった。差出人の欄には、宮廷の名だたる貴族たちの名が連なっている。その末尾に、ひとつ、見覚えのある名があった。イレーネ・オルグレン。宰相の、姪。
クラーラが背後で、低く言った。
「舞踏会は、社交界そのものです。作法も、記憶も、踊りも、すべてが、いちどきに試されます」
踊り。ミラは、その一語で喉の奥が締まるのを感じた。作法は写せた。筆跡は盗めた。けれど、舞踏は相手がある。手を取り、腰を支えられ、曲に合わせて足を運ぶ。誰かの身体と密着したまま、逃げ場もなく、何十対もの目に晒される。下働きの娘が、社交界の舞を、五十日で身につけられるはずもなかった。
「このイレーネという方は」ミラは招待状の名を指でなぞった。「どういう方なの」
「宰相オルグレン侯爵の、姪御にあたられます」クラーラの声が、わずかに沈んだ。「幼いころから、お嬢様と同じ席に招かれてきた方。つまり――本物のアデルハイト様を、幼少のみぎりから知っておいでです」
背筋を、冷たいものが伝った。侍女の探りとは、わけが違う。相手は、幼い日の本物を知る目だ。作り込んだ記憶では、届かない領域がある。
「宰相の、姪」
ミラは、その符合の意味を噛みしめた。本物を陥れ、偽物を仕立てた側の者が、その偽物を検分する場所へ、自ら招いている。試すために。あるいは、崩すために。
ミラは招待状を手に取った。上等な紙は、朝の作法の間の床のように、ひやりと冷たかった。舞踏会までの日は、指で数えられるほどしか残っていない。




