第四話 その一文字が、わたくしの命を測る
第四話 その一文字が、わたくしの命を測る
羽ペンの先が、白紙の上で止まっていた。
穂先に含ませたインクが、乾きかけて、先端でわずかに粘りはじめている。書見の間の窓から差す午後の光が、卓に広げられた羊皮紙を白々と照らしていた。乾いた紙と、鉄錆に似たインクの匂いが、鼻の奥でひとつに混じる。ミラはペンを握ったまま、動けずにいた。ここに、アデルハイトの名を書けと言われている。北の公爵家へ送る、王家の儀礼の書状。その末尾に、本物の花押を。
(形は、教わった。でも、それだけ)
今朝、居室を出る直前のクラーラの声が、耳に残っている。
「花押の形は覚えていただきました。けれど、運びまでは無理です。どの一画から書きはじめるか、どこで筆を止め、どこで力を抜くか。それは、その手が何百回と繰り返して初めて身につくもの。私には、教えようがありません」
時間切れだった。形だけをなぞった花押は、たしかに似ている。似ているだけの字は、筆跡官が見れば、なぞり書きだと一目で知れる。
卓の向かいには、書記官が控えていた。そして、その斜め後ろ。窓を背にした椅子に、王が座っている。政務の合間だと言って、ふらりと現れた。ふらりと、そんなはずがない。
(見に来た。わたしの字を)
ミラはペンを置いた。
「その前に、ひとつよろしいかしら」
書記官が顔を上げる。ミラは、卓の隅に積まれた古い書状の束へ目をやった。北の公爵家とのやりとりを綴じたものだと、入室のときに聞いていた。
「北へ送る前に、以前わたくしが何と書いたか、確かめておきたいの。同じことを繰り返しては、あちらに笑われますもの」
もっともらしい口実だった。書記官は少し迷ってから、束を解いて数通を差し出す。
「昨年の、収穫の礼状などが」
「ありがとう」
受け取る手が震えないよう、ミラは息を止めた。一通目を開く。そこに、本物のアデルハイトの字があった。
(これが、あなたの字)
細く、右へわずかに傾いだ字だった。ミラは「懐かしむ」表情を顔に貼りつけたまま、その一通を目でなぞっていく。読んでいるのではない。追っていた。花押の、最初の一画がどこから起こされているか。横棒のどこで筆が一度浮くか。名の末尾の払いに、どれだけ力が残されているか。
二通目を開く。同じ癖が、また現れた。三通目。書きはじめは、いつも左下から。止めは、二画目の終わり。払いは、最後に力を抜いて、細く。
(覚えた。あとは、この手が、それを繰り返すだけ)
問題は、ミラの手が、それを一度も繰り返したことがない、ということだった。
「懐かしいものですわね」
ミラは書状を丁寧に戻し、羊皮紙に向き直った。羽ペンを取り、インク壺に浸す。穂先を壺の縁で軽くしごいて、余分な滴を落とす。この所作だけは、下働きのころ、主人の帳面をつけさせられて覚えていた。
書きはじめる。
左下から、一画目。横棒で、一度、筆を浮かせる。頭の中では、たった今なぞった三通の字が、まだ生きて動いていた。それを、指に移す。二画目の止め。ゆっくりでは不自然だ。かといって速すぎれば、崩れる。呼吸を、字の運びに合わせた。息を吸って、起こし。吐きながら、払う。
最後の一画。力を抜いて、細く。
途中で、指先が一度、迷った。二画目の止めの位置が、記憶の中の三通で、わずかに違っていたのだ。どれが本当の癖か。ミラは一瞬の判断で、いちばん多く現れていた位置を選んだ。人の手は、いつも寸分たがわず同じには動かない。多少の揺らぎは、むしろ本物の証になる。そう自分に言い聞かせ、ペンを進めた。
ペンが、紙を離れた。
書記官が身を乗り出し、花押を検分する。過去の書状と、今書いたものを、並べて見比べていく。羊皮紙を透かし、光にかざし、また戻す。その一挙一動を、ミラは見ないふりで見ていた。書記官の眉が寄れば、そこが疑われた箇所だ。ミラは膝の上で、両の手をきつく組んだ。爪が手のひらに食い込む。もし、と考えかけて、その先を打ち消した。考えれば、顔に出る。
「……相違、ございません」
書記官が羊皮紙を巻き取った。ミラは、肺の底に溜めていた息を、ほんの少しずつ逃がす。
「なぜ、手が震える」
静かな声だった。王が、椅子から立ち上がっていた。いつのまにか、卓のすぐ横まで来ている。その目が、ミラの組んだ手に注がれていた。
(見られていた。ずっと)
「……慣れない字を、久しぶりに書きましたので」ミラは手をほどき、膝の上で開いてみせた。「北では、剣より重いものを持つ日もありませんでしたから」
本当のことだった。北の下働きに、羽ペンを握る機会などなかった。真実の、隣に。
王はしばらく、ミラの手を見ていた。それから、視線を上げた。
「私の父は」ぽつりと、王が言った。「病で死んだことになっている」
脈絡のない言葉に、ミラは顔を上げた。
「なっている、と仰るのは」
「言葉のとおりだ」王は羊皮紙の巻かれた卓を見下ろした。「私は、嘘に殺された父を持つ。だから、嘘の匂いには、鼻が利く。……そなたからは、妙な匂いがする。嘘のようで、嘘でない匂いだ」
ミラは、返事をしなかった。できなかった。
王は、それ以上は問わなかった。踵を返し、書見の間を出ていく。扉が閉まる音が、やけに長く尾を引いた。
一人になって、ミラはようやく、椅子の背に体を預けた。羊皮紙のインクの匂いが、まだ鼻の奥に残っている。凌いだ。凌いだはずだった。それなのに、王の最後の言葉が、抜けない棘のように胸に刺さっている。嘘のようで、嘘でない匂い。あの人は、確信の一歩手前で立ち止まっている。立ち止まったまま、こちらをじっと見ている。
そこへ、扉を叩く音がした。侍女が一人、告げに来る。
「妃殿下。礼法師のマチルダ夫人が、明朝、お作法の御見立てにと」
御見立て。抜き打ちの、作法の試験だ。
筆跡は、なぞる元があった。字は、見て盗めた。けれど作法は違う。身体に染みついた型は、目で見て一晩で移せるものではない。歩き方、椅子の座り方、扇のひらき方。そのどれか一つでも下働きの癖が出れば、礼法の番人はそれを見逃さないだろう。
ミラは、まだインクの残る自分の指を見つめた。夜が、来ようとしていた。




