第三話 茶器を持つ指を、あの人は見ている
第三話 茶器を持つ指を、あの人は見ている
東屋へ続く回廊は、色づきはじめた蔦に覆われていた。
風が通るたびに、枯れかけた葉が乾いた音を立てて散る。ミラはクラーラの半歩後ろを歩きながら、庭の景色を目に焼きつけていた。噴水の位置。植え込みの切れ目。もし逃げ出すことになったら、どこへ走れるか。下働きの癖は、どんな場所でもまず出口を探す。
「妃殿下」
クラーラが、前を向いたまま低く言った。
「陛下は、政のためにあなたを召したのではありません。今日は、それを忘れないように」
「政でないなら、なおさら恐ろしいわ」
クラーラは答えなかった。回廊の角を曲がるとき、その足がほんの一瞬だけ緩んだ。視線の先に、東屋の白い柱が見えている。
「……お嬢様も、この道を、よく通られました」
ぽつりと落ちた声だった。ミラが顔を上げると、クラーラはもう、いつもの抑揚のない横顔に戻っている。
「陛下と、庭を?」
「いいえ」クラーラの唇が、一度きつく結ばれた。「お一人で。俯いて、誰にも見せない顔で。……なんでもありません。参りましょう」
俯いて歩く公爵令嬢。その背中を、ミラは知らない。知らないのに、胸の奥がわずかに軋んだ。自分がなり代わっているのは、抜け殻ではなく、たしかにこの道を歩いていた一人の娘だったのだと、今さらのように思い知る。
東屋には、すでに王がいた。
卓の上には湯気を立てる茶器と、切り分けられた果実。人払いは、言葉どおり徹底されていた。給仕の姿さえない。ミラが礼を取ると、王は向かいの椅子を目で示した。
「かけろ。今日は、王も妃もない」
腰を下ろす。椅子の絹張りが、履き慣れないほど柔らかい。ミラは茶器に手を伸ばした。温かい。指を火傷しない持ち方を、この五十日で覚えた。取っ手に指を通し、もう片方をそっと底へ添える。
その手の甲に、視線が刺さった。
(見ている。顔じゃない。指を、見ている)
ミラは動きを止めなかった。止めれば、意識しているのが伝わる。ゆっくりと茶を運び、口をつけ、卓へ戻す。王の目が、その一連をたどっていた。作法を見ているのではない。指の関節の使い方、爪の形、手首の返し。そういう、教えられない部分を。
この手には、消えない証がある。灰汁で荒れた指の腹。水仕事で厚くなった付け根の皮。絹の手袋を外せば、下働きの十八年が刻まれている。今日は袖の長い装いで甲を隠しているが、いつまで隠しきれるものか。ミラは、茶器を持つ手にほんの少しだけ力を込めた。震えを、湯気の熱のせいに見せかけるために。
「北の茶は、渋いと聞く」王が言った。「口に合うか」
「渋さは、慣れると恋しくなりますの」ミラは湯気の向こうの王を見た。「甘いものは、すぐに飽きますでしょう」
「甘いものは飽きる、か」王の口の端が、ほんのわずか動いた。笑ったのではない。何かを確かめて、それを胸の内にしまう動きだった。「あの女なら、蜜をたっぷり入れさせた」
あの女。また、その言い方だった。
(試している。わたしが、どちらを選ぶか)
喉が乾く。ここで「わたしもそうします」と合わせれば、本物のふりになる。合わせなければ、別人だと言っているに等しい。どちらも罠だ。ミラは、真実の隣に嘘を置く場所を探した。
「北で暮らすうちに、舌が変わったのかもしれません」茶器の縁を指でなぞる。「人は、住む土地に似ていくものだと聞きました。わたしは今、渋いほうの人間ですわ」
王はしばらく黙っていた。庭で鳥が一羽、短く鳴いて飛び立つ。その羽音が消えるまで、二人とも動かなかった。
「そなたは」王がふいに言った。声から、探る棘が抜けていた。「私に嘘をつくとき、目を逸らさないな」
心臓が、跳ねた。
「逸らせば、疑われますもの」
「逆だ。人は、嘘のときこそ目を合わせようとする。合わせすぎる」王は茶器を回した。琥珀色の水面が、ゆっくりと揺れる。「だが、そなたのそれは、違う。逃げ場を探しながら、それでも逃げない目だ」
見抜かれている。けれど、どこまで。ミラは膝の上で指を組んだ。
「陛下は、人を見すぎます」
「見なければ、私はとうに死んでいた」
抑揚のない一言だった。その底に、氷血の王と呼ばれる男の、剥き出しの孤独が沈んでいた。ミラは、返す言葉を持たなかった。持たないまま、なぜか、この人も一人なのだと感じてしまった自分に、うろたえた。
「妙な女だ」王は茶器を置いた。陶器が卓に触れる、小さな硬い音がした。「私が見ていると知って、それでも指を隠さない。たいていの者は、私に見られていると気づいた時点で、手が強張る。そなたは、逆に力を抜いた」
気づかれていた。震えを隠したことも、隠し方まで。ミラは背に汗がにじむのを感じながら、それでも声だけは落ち着けた。
「強張って困るのは、後ろ暗い者だけでしょう」
「そうだといいがな」
王の目が、また一度、ミラの手に落ちて、離れた。追及はしなかった。追及しないことのほうが、追及されるより、よほど恐ろしかった。
茶会が退けられ、東屋を辞するとき、王はミラを一度だけ呼び止めた。
「アデルハイト」
振り返る。夕日が、王の横顔を赤く縁取っていた。
「近いうちに、そなたの字が見たい」
「……字、ですか」
「あの女の書いた手紙は、何通も残っている」王の声は静かだった。「筆跡というのは、面白いものだ。顔よりも、その者の芯が出る」
それだけ言うと、王は背を向けた。回廊の影が、その姿を少しずつ飲み込んでいく。
ミラは動けなかった。手紙。筆跡。ミラは、本物のアデルが書いた字を、ただの一度も見たことがない。
顔は似せられた。声は選べる。指は、隠せる。けれど字は、まねる元がなければ書きようがない。癖のひと払い、力の込め方の一つで、別人だとすぐに知れる。しかも相手は、筆跡には芯が出ると言い切る男だ。
(見なければ、書けない。でも、どこで見るの)
本物の手紙は残っていると、王は言った。ならば、この宮廷のどこかにある。屋敷の遺品か、王家に納められた書簡か。それを、疑われずに手に取る口実を、どうにか作らなければならない。
風が、また蔦の葉を散らした。乾いた音が、足元を過ぎていく。ミラは冷えはじめた指先を、もう片方の手で包んだ。日はもう、庭の木立の向こうへ落ちかけていた。




