第二話 嘘をつかない嘘のつき方
第二話 嘘をつかない嘘のつき方
夜明け前の居室は、墨を溶かしたように暗かった。
寝台の天蓋を見上げたまま、ミラは一睡もしていなかった。まぶたを閉じるたびに、あの声が耳の裏で鳴る。お前は、あの女とは違うな。
(何を根拠に、あの人はそう言ったのだろう)
指の震えか。礼の型か。それとも、声か。ミラは昨日の自分の一挙一動を、洗った皿を一枚ずつ数えるように検算していく。合わせかけた手はほどいた。目線は先に落とした。声も、上ずってはいなかったはずだ。
それでも、王は見抜きかけた。
窓の外がわずかに白んでくる。鳥の声が一つ、遠くで鳴いた。灰色の光の中で、天蓋の刺繍がゆっくりと形を取り戻していく。銀糸で縫われた薔薇。本物のアデルが、この下で眠っていたのだ。
(あなたは、どんなふうにあの人を見ていたの)
答える者は、もういない。
「起きていらしたのですね」
まだ薄暗いうちに、クラーラが燭台を手に入ってきた。灯芯の焦げる匂いが、湿った朝の空気に混じる。
「眠れなくて」
「結構です。眠らずとも動けるのは、令嬢の素質のうちではありませんが、偽物には必要な才です」
言い方に容赦はない。クラーラは燭台を鏡台に置くと、ミラの正面に立った。
「昨日、陛下に何を言われました」
「……あの女とは違う、と」
クラーラの手が、櫛を取り上げる途中で止まった。ほんの一瞬だった。すぐにまた、何ごともなかったように髪を梳きはじめる。
「陛下は、人の嘘を数える方です。声を荒げず、静かに待って、相手が自分から綻ぶのを見ておられる。宮廷でいちばん、油断してはならないお相手」
「なら、どうやってあの人の前で息をすればいいの」
鏡の中で、クラーラの目がミラを捉えた。
「嘘を、おつきなさい。ただし、丸ごとの作り話は駄目です。あれは軽い。持ち上げればすぐに底が知れる」
クラーラは櫛を置き、鏡台の上の水差しを手に取った。
「ご覧なさい。この水差しは、昨日この部屋にありました。これは事実。では『この水差しは、亡きお母様の形見です』。これは?」
「嘘、です」
「そうです。けれど、水差しが昨日ここにあったのは本当。真実の隣に嘘を置くと、聞く者は本当のほうを信じて、嘘まで飲み込む。知らぬことを問われたら、知っている事実の位置を、少しだけ換える。丸ごと作らない。裂けるのは、いつも継ぎ目のないところです」
ミラは水差しを見つめた。ありふれた白い陶器が、急に武器のように見えてくる。
「では、稽古です」クラーラは水差しを置いた。「亡きお母様は、どんな声の方でしたか」
知らない。ミラは、母の顔さえ覚えていない。灰と石鹸の匂いの中で育った娘に、公爵夫人の声など分かるはずもない。喉の奥がつまった。
(丸ごと作れば、軽い。真実の、隣に――)
「母の声を思い出そうとすると、いつも、雨の音が先に来ますの」ミラは、自分の本当の記憶をたぐり寄せた。洗い場の屋根を叩いていた、あの雨だ。「声より先に、雨。だから、うまくお答えできません」
クラーラの目が、ほんのわずか、細くなった。
「……悪くありません。声を語らず、声を思い出せない理由を語った。人は、語られなかったものを問い詰めにくい」
褒め言葉ではなかった。ただ、及第だと言われた気がして、ミラは詰めていた息をそっと逃がす。
(真実の、隣に。忘れない)
朝の支度が終わるころ、居室に侍女たちが入ってきた。
髪を結い、衣を整える手が幾組も動く。その中の一人、丸い頬をした若い侍女が、櫛を通しながら親しげに口を開いた。
「妃殿下。北へ発たれる前の、あの雪の朝を覚えていらっしゃいますか。厨房の裏で、こっそり焼き菓子をつまみ食いなさって」
手が、ミラの髪に触れている。何気ない世間話の顔をして。
(探っている)
雪の朝。焼き菓子。どちらも知らない。頷けば、次に「あのとき一緒にいた子は誰でしたか」と来るだろう。違うと言えば、記憶の食い違いが、この娘の口から誰かへ伝わる。ミラは鏡の中の侍女を見た。目の奥が、櫛を持つ手つきよりずっと忙しなく動いている。
真実の、隣に。
「厨房の裏は、いつも小麦の焦げる匂いがしていたわ」ミラは、知っている事実だけを口にした。灰にまみれた下働きの娘が、たしかに毎朝嗅いでいた匂いだ。「あの匂いを思い出すと、北の寒さも少しだけ遠くなる。つまみ食いのことは、あなたに言われるまで忘れていたことにしておいて」
侍女が、ふ、と笑った。警戒の張りつめが、頬の丸みに溶けていく。
「妃殿下ったら」
櫛の動きが、ただの櫛の動きに戻った。ミラは膝の上で、握っていた拳をそっとほどく。手のひらに、爪の痕が四つ、残っていた。
凌いだ。けれど、安心はできなかった。あの侍女は笑って引き下がったが、探ろうとした事実そのものが消えたわけではない。雪の朝も、焼き菓子も、答えられないまま宙に浮いている。今日かわした問いは、明日には別の口から、形を変えてまた戻ってくる。
(一つ嘘をつくたびに、覚えておくことが一つ増える。忘れたら、そこから裂ける)
鏡の中の自分は、公爵令嬢の顔をして、下働きの目をしていた。
侍女たちが下がると、入れ替わりに一通の書状が届けられた。
銀の封蝋に、王家の紋。クラーラが受け取り、開き、目を走らせる。読み終えると、その眉が、わずかに寄った。
「陛下から。近く、私的な茶会にとのお召しです」
「私的な」
「人払いをした、二人きりの席ということでしょう」クラーラは書状をたたんだ。乾いた紙の音が、やけに大きく響く。「昨日のひとことは、気まぐれではなかったようですね」
ミラは書状を受け取った。紙は上等で、指の腹に吸いつくようになめらかだった。銀の封蝋は、まだかすかに温かい。ついさっき、誰かの手で押されたばかりなのだ。
いちばん近づいてはならない相手が、いちばん近くへ、ミラを呼んでいる。人払いをした席には、かわす相手も、助け舟を出す誰かもいない。あるのは、嘘を数える静かな目と、それに向き合う自分だけだ。
(真実の隣に。今度は、あの人の前で)
窓の外で、宮廷の一日を告げる鐘が鳴りはじめた。その音を数えながら、ミラは白い水差しに、もう一度だけ目をやった。ありふれた陶器は、朝の光の中で、静かに白く光っていた。




