第一話 玉座の前で、わたくしは別人になる
第一話 玉座の前で、わたくしは別人になる
両開きの扉の向こうで、人のさざめきが波のように寄せては引いていた。
その一枚を隔てた控えの間で、ミラは自分の指先を見つめている。爪の生え際には、いくら磨いても落ちない灰の色が残っていた。洗い場で灰汁を扱ってきた手だ。絹の手袋の下で、その手が今、細かく震えている。
(この手を、誰にも見られてはいけない)
香の煙が鼻をくすぐった。貴族が身を清めるという白檀の匂いは、下働きの娘には強すぎて、喉の奥がひりつく。慣れない締めつけの胴着が、息を浅くさせた。
「顎を、指一本ぶん引いてください」
クラーラの声に温度はない。ミラの斜め後ろに控えたまま、その侍女は扇の陰から低く続けた。
「陛下に礼をなさるとき、目線を先に落とす。首は最後です。逆にすれば、それだけで貴族は育ちを疑います」
「わかりました」
ミラは答えてから、唇を噛んだ。噛んでから、それも令嬢のすることではないと気づいて、そっと力を抜く。
(アデルハイト・フォン・ローゼンフェルト。十九で亡くなった、公爵家の令嬢。わたしは今日から、その人になる)
五十日だった。灰にまみれた娘が、公爵令嬢の抜け殻に潜り込むために与えられた時間が。作法も、家族の思い出も、この宮廷で誰が誰といがみ合っているのかも、何ひとつ足りていない。足りていないまま、扉は開く。
「ひとつだけ」
クラーラが扇を閉じた。骨の鳴る、乾いた音がした。
「知らぬことを問われたら、嘘で塗り固めようとなさらないこと。嘘は、いつか必ず裂けます」
「では、どうすれば」
「知っている事実を、少しだけ位置を変えてお話しなさい。真実の隣にいれば、嘘は嘘に見えません」
答える前に、扉が内側から引かれた。光と、無数の視線が、いちどきに流れ込んでくる。
謁見の間は、思っていたより寒かった。
磨かれた石の床が、履き慣れない靴を通して足の裏を冷やす。両脇にずらりと居並ぶ貴族たちの視線が、絹の背中に刺さった。値踏みする目。品定めする目。その奥に、ひときわ静かな一対がある。
玉座の男だった。若い。噂に聞いた「氷血の王」という響きから勝手に描いていた老獪さは、そこにない。ただ、こちらを見る目の奥に、笑いも怒りもなかった。感情の温度が、抜き取られている。
(見られている。顔ではない。もっと、奥を)
玉座までの絨毯を、ミラは数えながら歩いた。縁の刺繍が七つ、そこで止まる。膝を折り、礼を取る。
その瞬間、指がひとりでに動きかけた。洗い場で女主人に頭を下げるときの、卑屈に胸の前で合わせる手だ。貴族の令嬢は、そんな手をしない。
(違う)
ミラは玉座の脇に控える老女官を、睫毛の下から盗み見た。背筋の伸ばし方、片手をわずかに裾へ添える角度。ほんの一拍、それを写し取る。合わせかけた手をほどき、片方を腰のあたりへ流した。誰にも気づかれぬほどの間だったと、信じるしかない。
「アデルハイト・フォン・ローゼンフェルト。参上いたしました」
声が、思ったより落ち着いて出た。
「久しいな」王が言った。低く、乾いた声だった。「北の空気は、そなたを変えたか」
(久しい。この人は、本物のアデルに、会っている)
背筋を冷たいものが伝った。ここで頷けば、いつ、どこで会ったのかを問われる。知らない記憶を知っているふりで踏めば、そこから裂ける。
「北の風は、人を無口にいたします」ミラは目線を伏せたまま答えた。「話すべきことを、選ぶようになりますもの」
貴族の誰かが、小さく笑った。悪くない返し、という気配。ミラは息を継ぐ。
王は答えなかった。ただ、玉座の肘掛けに置いた指を、一度だけ、こつ、と鳴らした。
「宰相」
呼ばれて、玉座の脇から一人の男が進み出た。恰幅のいい、慇懃な笑みを顔に貼りつけた老臣だ。この男が誰なのかを、ミラはクラーラの描いた宮廷の絵図で覚えている。オルグレン侯爵。宮廷の実権を握る男。
「これはこれは、ローゼンフェルトのご令嬢」宰相は袖の中で手を組んだ。「先の茶会では、白薔薇がお好きだと伺いましたが。あれはやはり、お母君ゆずりで?」
(罠だ)
白薔薇。母。どちらも、ミラの知らない過去だった。好きだと頷けば、次に母の名を問われる。違うと言えば、以前の言葉との食い違いを突かれる。喉の奥が、また、ひりついた。
「花の好みは、季節で変わってしまいますの」ミラは宰相を見ず、床の一点に目を落とした。「今の北には、薔薇は咲きません。咲かないものを好きだと申し上げるのは、嘘になりますでしょう」
宰相の笑みが、ほんの一瞬だけ止まった。止まって、また元に戻る。舌の上で何かを転がすように、老臣は「なるほど」と呟いた。
「ずいぶんと、慎重になられた」
言葉は褒めていた。声の底は、そうではなかった。ミラは伏せた目の端で、王がこちらではなく宰相を見ているのに気づく。二人の間を、目には見えない糸のようなものが張り渡されている。踏み込んではならない領分が、この宮廷にはいくつもあるらしい。
(覚えておかなければ。誰と誰が、どんな糸で繋がっているのか)
謁見が退けられ、貴族たちが三々五々に散っていく。ミラは背を伸ばしたまま、出口へ向かって歩いた。膝が、今になって笑い出しそうだった。石の廊下の冷気が、汗ばんだ首筋に触れて、初めて自分がどれだけ汗をかいていたかを知る。
(凌いだ。今日は、凌いだ)
その背に、声がかかった。
「アデルハイト」
振り返る。玉座を降りた王が、すぐそこに立っていた。近い。宰相にも聞こえない、二人だけの距離だった。付き従う者たちは、数歩の後ろで足を止めている。
王はミラの顔を、初めてまっすぐに見た。目、鼻、唇。順にたどって、最後にもう一度、目に戻る。答え合わせでもするような、静かな視線だった。
「お前は」王の声が、さらに低くなった。「あの女とは、違うな」
あの女。
ミラは、自分の心臓が一度、止まったのが分かった。
気づかれたのか。それとも、ただの印象を口にしただけなのか。王の目からは、どちらとも読み取れない。笑いも、疑いも、そこには浮かんでいなかった。
答えを探して口を開きかけたとき、王はもう背を向けていた。マントの裾が石の床を払い、遠ざかっていく足音だけが残る。ミラは、その場に縫いとめられたように動けなかった。
凌いだのではなかった。始まっただけだ。明日も、明後日も、この人の前で息をして、別人でありつづけなければならない。
(違う、と言われた。……その意味を、わたしはまだ知らない)
冷えた廊下の奥で、鐘が一つ、低く鳴った。




