第二十九話 儀式刀が、掲げられる
第二十九話 儀式刀が、掲げられる
建国神殿は、荘厳な、静寂に、満ちていた。
高い石の天井から、色硝子を通した光が、幾筋も、降り注いでいる。香の煙が、細く立ちのぼり、祭壇の前には、白い祭服の神官たちが、居並んでいた。参列する、宮廷のすべての目。王が、祭主の座に。公爵が、廷臣の列に。そして、宰相オルグレンが、余裕の笑みを、貼りつけて。
その中央へ、ミラは、妃候補として、進み出た。
背筋を、恐れでは、曲げない。マチルダに、叩き込まれた通りに。逃げ場のない、この聖域で、ミラは、まっすぐに、前を見た。袖の内には、三つの証拠が、確かに、ある。
儀式が、始まった。
神官が、古い言葉で、祈りを、奉じる。ミラは、口上を、奉じた。声は、震えなかった。この五十日、いや、下働きの十八年、磨き続けた、すべてを、この一瞬に、注ぎ込む。
最初の関門は、作法だった。
祭壇への、拝礼。奉納の、所作。扇の、開閉。かつて、作法の間で、マチルダの手本を、睫毛の下で盗み、鏡を映すように、写し取った。あの日々が、今、身体に、宿っている。ミラの拝礼は、もう、盗んだ型ではなかった。マチルダに教わった、形の裏の心を、確かに、こめた礼だった。継ぎ目のない、淀みのない、所作。廷臣の列で、マチルダが、わずかに、目を細めるのが、見えた。認める、目だった。
次の関門は、筆跡だった。
神前の、誓紙に、アデルハイトの名を、記す。花押を。かつて、書見の間で、過去の書状を口実に、本物の運筆を盗んだ。あの手が、今、動く。ミラは、羽ペンを取った。左下から、一画目。二画目の、留めを、わずかに沈めて。末尾の、払いを、細く。筆跡官が、その字を、検める。長い、沈黙。そして、頷いた。
二つの関門を、越えた。作法も、筆跡も、これまで積み上げた、観察と機転の、すべてで。震えながら、一日ずつ、綻びを繕ってきた、その積み重ねが、今、神前の光の中で、実を結んでいた。参列者たちが、感嘆の、ため息を漏らす。けれど、ミラは、知っていた。これらは、まだ、人が判ずる照合。人の目には、必ず、欺く隙があった。本当の壁は、この、あとに来る。人ではなく、血が、判ずる、あの照合が。
その時だった。
廷臣の列から、恰幅のいい影が、進み出た。
「お待ちを」宰相オルグレンの声が、神殿に、朗々と、響いた。「神官どの。儀を、進める前に、申し上げねばならぬことが、ございます」
参列者が、ざわめく。宰相は、ゆっくりと、中央へ歩み出て、ミラを、指し示した。
「この妃候補は――偽物でございます」
神殿が、どよめきに、包まれた。
「わたくしは、確かな筋より、掴んでおります。北のローゼンフェルト領で、亡きアデルハイト様と瓜二つの、下働きの娘が、行方知れずになっていると。この者は、その娘。アデルハイト様に、成りすました、偽物にございます」宰相の声は、勝ち誇っていた。「ゆえに、神官どの。どうか、あの、血の台帳照合を。血は、偽れませぬ。この者の血が、台帳の血判と、合わぬことこそ、何よりの、証」
宰相は、儀を、断罪の場に、変えようとしていた。ミラを、偽物として、神前で、葬るために。かつて、本物のアデルを、事故に見せかけて葬ったように。今度は、その顔を借りた偽物を、神の名のもとに、堂々と。
参列者の視線が、いっせいに、ミラへ、集まった。値踏みする目。蔑む目。憐れむ目。無数の目に、絹の背が、刺し貫かれる。祭壇の上座で、王が、静かに、こちらを見ていた。何も、言わなかった。ただ、その目が、告げていた。お前の、戦いだ、と。
ミラは、袖の内の、証拠を、握りしめた。折りたたまれた三枚の紙の、固い感触。アデルが命がけで遺した告発。それが、今、ミラの手の中に、確かに、ある。
来た。この一瞬のために、震えながら、すべてを、揃えてきた。ミラは、恐怖を、腹の底へ、押し込めた。臆病な、下働きの娘。けれど、追い詰められた瞬間だけ、誰よりも、冷静に、頭が回る。それが、ミラの、たった一つの、武器だった。そして今が、その、瞬間だった。
ミラは、一歩、前へ、踏み出した。逃げるのでは、ない。自ら、進み出るのだ。反撃の、口火を、切るために。
けれど、神官は、宰相の告発を、受けて、静かに、告げた。
「では――血の台帳照合を、行いましょう」
ミラの、足が、止まった。
順番が。ミラの、背に、氷が、走った。宰相の告発が、そのまま、血の照合へと、繋がってしまう。ミラが、証拠を、突きつける、その前に。血を、照らされてしまえば。ミラは、偽アデルとして、暴かれ、口を封じられる。誰も、偽物の言葉になど、耳を貸さなくなる。そうなれば、袖の内の三つの証拠も、ただの、あがきに、成り下がる。
宰相の、狙いは、これだった。ミラに、反撃の口を開かせる前に、血の照合で、その口を、封じる。告発を、そのまま、断罪へ。老獪な、罠だった。ミラが、証拠を握っていることまでは、宰相は、知らない。知らぬまま、ただ、勝ち筋を、まっすぐに、突いてきた。それが、かえって、ミラの活路を、塞いでいた。
神官が、血判台へ、ミラを、促す。逆らえば、それが、偽物の証と、取られる。今、ここで「宰相こそ罪人だ」と叫んでも、証を示す間もなく、「見苦しい偽物の悪あがき」として、血の照合へ、押し流される。ミラは、唇を、噛んだ。順番を、間違えれば、すべてが、終わる。それでも、足は、血判台の前へ、進むしか、なかった。
白い、石の台。その上に、古い、血判台帳が、開かれている。神官が、儀式刀を、両手で、掲げた。銀の刃が、色硝子の光を受けて、冷たく、煌めく。その刃が、ミラの指から、一滴の血を、求めていた。
血は、偽れない。宰相の、あの囁きが、耳の奥で、鳴った。
この、一滴で、すべてが、決する。ミラの、偽りも。ローゼンフェルトの、血も。宰相の、罪も。神殿の、すべての目が、ミラの、白い指先に、注がれている。王も。公爵も。クラーラも。ユリアンも。勝ち誇る、宰相も。息を、詰めて。
ミラは、血判台の帳面を、そっと、見下ろした。台帳には、当主グレゴールの血判が、遺されている。父の、血。もし、この一滴が、それと、繋がりを見せるなら。けれど、その前に、順番を、変えなければ。血を、照らされる、その一瞬より、早く。
儀式刀が、ゆっくりと、掲げられた。銀の刃が、光を、弾く。神官の手が、それを、ミラの指へ向けて、振り下ろそうと――。




