第二十八話 雑踏こそ、唯一の隙
第二十八話 雑踏こそ、唯一の隙
建国祭の朝は、まだ明けきらぬうちから、王宮を、喧騒で満たしていた。
儀式のための調度が運び込まれ、楽師が調べを合わせ、廷臣たちが、慌ただしく行き交う。祝いの声と、足音と、金物の触れ合う音が、渦を巻いている。ミラは、その雑踏の中に、立っていた。
この混乱こそが、唯一の隙だった。
宰相は、日記の頁を、肌身離さず、懐に持っている。あの周到な男から、それを奪うなど、平時なら、できはしない。けれど今日は、違う。祭りの雑踏。人と人が、絶え間なく、ぶつかり合う、この一日だけが、ミラに与えられた、たった一度の、機会だった。
「配置は」ミラは、低く、確かめた。
「俺が、宰相の警護の動きを、逸らします」ユリアンが、鎧の下で、答えた。「クラーラ殿が、人混みを作る。妃殿下は、その隙に」
三人は、目を、交わした。一度きりの、賭けが、始まる。
ミラは、遠くから、宰相の姿を、観察していた。
恰幅のいい老臣は、儀式の采配を振るいながら、廷臣たちと、言葉を交わしている。余裕の、笑みを浮かべて。今日、血の照合で、偽物を暴くと、信じきった顔だった。
ミラの目は、その所作の、一点だけを、追っていた。人は、大切なものを、身につけていると、無意識に、それを、確かめる。下働きのころ、盗みを疑われた娘が、隠した菓子を、そっと、袖の上から触るように。宰相もまた、時おり、右手を、上着の左の内側へ、当てていた。会話の合間に。廷臣が近づいたときに。ほんの、一瞬。けれど、確かに。大切なものが、そこにあるかを、確かめる、癖だった。
(左の、内隠し)
頁の在処は、割れた。あの周到な男が、決して手放さぬ切り札は、上着の左の、胸の内側にある。あとは、あの懐へ、いかにして、この指を、届かせるか。一度、しくじれば、二度目は、ない。しくじった瞬間、ミラは、盗人として、その場で、捕らえられる。
ユリアンが、動いた。宰相の警護の騎士に、儀式の段取りで、声をかける。警護の目が、そちらへ、逸れる。同時に、クラーラが、運搬の下働きたちの間で、わざと、荷を崩した。器が、床に散らばり、人が、どっと、そこへ群がる。混乱が、渦になって、広間を、呑んだ。
その渦の中へ、ミラは、身を、滑り込ませた。
心臓が、喉元で、鳴っている。けれど、指先だけは、氷のように、冷えて、動いた。恐怖が、思考を、加速させる。ミラの、たった一つの、体質だった。人波に、押されるふりをして、宰相の、すぐ傍らへ。ぶつかる。よろめく。「ご無礼を」と、詫びる。その声で、相手の注意を、顔へ、引きつけておいて。その、ほんの一瞬。ミラの、もう片方の指が、宰相の上着の、左の内側へ、音もなく、滑り込んだ。
指先が、固い紙の感触を、捉える。あった。折りたたまれた、日記の頁。ミラは、それを、そっと、引き抜いた。下働きのころ、飢えを凌ぐために、主人の目を盗んで、こぼれた小銭を拾った、あの指の速さで。誰にも、気づかせぬように。
「――何をしている」
宰相の手が、ミラの手首を、掴んだ。気づかれた。ミラの、心臓が、跳ねる。抜き取った頁を握った手を、宰相が、渾身の力で、引き寄せようとする。人目の、ある場所だった。ここで、頁を、奪い返されれば。すべてが、終わる。
「これは、これは」
澄んだ声が、割って入った。
王だった。祭主として、儀式の装束をまとった王が、いつのまにか、二人の、すぐ傍らに、立っていた。
「オルグレン。妃を、そのように、手荒に扱うとは」王の声は、穏やかで、けれど、有無を言わせぬ響きがあった。「今日は、めでたい、建国の祭りだ。その手を、離せ」
衆目の中で、祭主たる王に、そう言われれば。宰相は、ミラの手首を、離すしか、なかった。ここで騒ぎ立てれば、「妃を手荒に扱った臣」として、自らの立場が、危うくなる。周到なこの男は、その計算を、一瞬で、済ませた。だが、その一瞬こそが、命取りだった。
老臣の顔に、初めて、隠しきれない、動揺が走る。ミラは、その隙に、頁を握った手を、素早く、袖の内へ、引いた。宰相の左胸から、切り札が、消えた。老臣の右手が、無意識に、また、上着の内側へ伸びる。そして、そこに、何もないことに、気づく。恰幅のいい体が、初めて、凍りついた。
王の、暗黙の助力だった。言葉ではなく、その身一つで、場を制し、ミラに、逃げ道を、作った。目が、合う。王は、何も言わず、ただ、静かに、頷いた。行け、と。その目が、告げていた。
混乱を離れ、ミラは、神殿の控えの間へ、身を寄せた。
そこには、王も、クラーラも、ユリアンも、集っていた。ミラは、震える手で、袖から、奪い取った頁を、取り出した。折り目を、開く。本物のアデルの、細く傾いだ筆で、そこには、はっきりと、記されていた。宰相オルグレン侯爵の、名が。自らを陥れた者の名を、アデルは、最後に、書き遺していた。
これで、揃った。
ミラは、三つの紙を、震える指で、並べた。死亡記録の、日付の齟齬を写した紙。宰相の書斎から得た、工作の指示書の写し。そして、アデル自身の筆で黒幕を名指しした、告発の頁。一つずつなら、言い逃れられた。けれど、三つを、並べれば。事故の日付は繰り上げられ、排除は指図され、殺される側が名を書き遺していた。もう、事故という嘘は、どこにも、立つ瀬がない。
加えて、クラーラという、死の夜を知る、証人。血と、証と、証人。反撃の、すべての駒が、初めて、盤の上に、揃った。
「見事だ」王が、静かに言った。「あの男を、ここまで追い詰めた者は、いない」
「まだ、勝ってはおりません」ミラは、首を振った。緩めれば、そこで崩れる。「あの神前で、血を照らされる前に、これを、突きつけて、初めて。……順番を、間違えれば、すべてが、水の泡です」
クラーラが、ミラの装束の、乱れを、そっと、直した。ユリアンが、剣の柄に、手を置いた。それぞれの、持ち場へ。四人の、たった四人の、戦いだった。
控えの間の外で、荘厳な鐘が、鳴りはじめた。建国神殿の、王妃認証の儀。その、幕が、上がろうとしていた。ミラは、証拠を、胸に、抱きしめた。すべては、この、一発勝負に、懸かっていた。




