第二十七話 これは、お前の母だ
第二十七話 これは、お前の母だ
儀の前夜、ミラは、公爵グレゴールの別邸へ、忍んで向かった。
奥の間へ通されると、公爵は、壁の前に、立っていた。壁には、布のかけられた、一枚の大きな額。武具の並ぶ書斎とは違う、静かな、閉ざされた部屋だった。蝋燭の炎が、一つ、揺れている。かすかに、古い絵具の匂いがした。
「来たか」低い声だった。「儀の前に、どうしても、お前に、伝えておかねばならぬことがある」
公爵の手が、額の布に、かかった。
布が、静かに、滑り落ちる。
現れた肖像画に、ミラは、息を呑んだ。若い女性が、描かれていた。淡い栗色の髪。少しかしげた首。そして、左手の親指を、内側に、そっと握り込む、その手つき。ミラ自身が、物心つく前から、無意識にやっている、あの仕草だった。
顔が、ミラに、生き写しだった。
「これは」公爵の声が、初めて、震えた。「お前の、母だ」
ミラは、言葉を、失った。
母。顔さえ、覚えていない。思い出そうとすると、いつも、雨の音が、先に来る。洗い場の屋根を叩く、あの雨だけが、母の記憶の、代わりだった。その母が、今、目の前に、いる。絵の中で、静かに、微笑んでいる。ミラは、震える指を、そっと、肖像へ伸ばしかけて、止めた。触れれば、崩れてしまいそうで。この人が、わたしを、産んだ。この人の首のかしげ方が、指の癖が、わたしの中に、確かに、生きている。目の奥が、熱くなった。
「名を、リーゼといった」公爵は、肖像を見上げたまま、語りはじめた。「北の、身分低い、絵師の娘だった。私は、妻を娶る前、あれと、恋に落ちた。家は、決して許さぬ仲だった。あれは、身分を弁え、私の前から、黙って去った。身ごもったことを、告げもせずに」
蝋燭の炎が、揺れる。
「私が、あれの死を知ったのは、ずっと後だ。流行り病で、あっけなく。そして、あれが、女の子を遺していたことも。その子は、母の死後、身寄りもなく、私の領地の、別邸の下働きとして、拾われ、育っていた。……名を、ミラ、と」
ミラの、心臓が、止まった。
「気づいたときには、お前は、もう、灰にまみれて、十五になっていた。私は、名乗り出ることが、できなかった。今さら、何の顔をして。家のため、国のために、政略の妻を娶り、アデルを、儲けた身で」公爵の拳が、握られた。「私は、卑怯者だ。実の娘を、下働きのまま、見て見ぬふりをした。せめて、遠くから、食うに困らぬようにと、それだけを」
「では」ミラの声が、掠れた。「わたしと、アデルさまが、似ているのは」
「異母姉妹だからだ」公爵は、ミラを見た。その目に、涙が、にじんでいた。「お前と、アデルは、同じ、私の血を引く、姉妹なのだ。顔が似るのも、あの、指の癖も、血の、なせるものだ」
ミラは、その場に、立ち尽くした。灰まみれの、名もない孤児。ずっと、そう思って、生きてきた。それが――ローゼンフェルトの、公爵の、娘。アデルの、妹。偽物として、身代わりに立った、その相手は、本当の、血を分けた、姉だったのだ。
胸の中で、いくつもの綻びが、一度に、繋がった。なぜ、顔がこれほど似ているのか。なぜ、削り取られた肖像の裏書きがあったのか。なぜ、クラーラは出自を問うと口をつぐんだのか。なぜ、この公爵が、道具のはずの自分を、あんな湿った目で見たのか。すべては、この一つの真実へ、繋がっていた。ミラは、偶然の他人の空似ではなかった。血が、そうさせていたのだ。
怒りが、こみ上げるかと思った。この人は、実の娘を、下働きのまま放置し、あまつさえ、姉の身代わりという、死と隣り合わせの役目に、追い込んだ。けれど、公爵の、涙をこらえる横顔を見ていると、その怒りは、行き場を、失った。この人もまた、家と国の重さに縛られ、愛した女も、二人の娘も、守りきれなかった、一人の、弱い男だった。
「なぜ」ミラは、震える声で、問うた。「なぜ、今、それを」
「明日、血の台帳照合がある」公爵は、静かに言った。「あの台帳には、ローゼンフェルトの、当主の血判も、遺されている。私の、血判だ。血の紋は、親から子へ、確かに受け継がれる。お前の血は、アデルとは、一致せぬ。だが、当主たる私の血筋と、照らせば、そこに、繋がりが、見えるはずだ」
ミラは、顔を上げた。
「お前は、偽アデルとしてなら、暴かれる。だが、ローゼンフェルトの血を引く者としてなら――偽物では、ない」公爵の声に、力がこもった。「ただし、それだけでは、足りぬ。血の繋がりを示すだけでは、身代わりの罪は、消えぬ。宰相の罪を、同じ神前で、暴いてこそ、初めて、お前の立つ瀬が、生まれる。血と、証と、二つが、揃わねばならぬ」
血縁ゆえの、一縷の活路。ミラは、その意味を、冷静に、噛みしめた。感情の嵐の中でも、あの、追い詰められたときに冴える頭が、反撃の設計を、静かに組み立てていく。
出自だけでは、勝てない。「わたしはローゼンフェルトの血だ」と叫んでも、身代わりを立てた罪は、残る。宰相は、それを突いてくるだろう。「血がどうあれ、この女は偽アデルとして宮廷を欺いた」と。だから、順番が、要る。まず、宰相の罪を暴き、儀の場を、断罪の場から、告発の場へ、ひっくり返す。そのうえで、血の照合を、逆に、自らの正当性の証として、使う。剣で黒幕を斬り、盾で我が身を守る。二つが、同じ一瞬に、噛み合ったとき、初めて、勝機が、生まれる。
出自は、盾になる。だが、剣は、別に要る。宰相の罪という、剣が。そしてその剣の切っ先、日記の頁は、まだ、あの男の懐の中にあった。夜が明ければ、それを奪う、最後の賭けが、始まる。
別邸を出ると、空が、白みはじめていた。
東の空が、晩秋の淡い光に、染まっていく。建国祭の、朝が、来る。ミラは、白む空を、見上げた。わたしは、ミラ。灰まみれの孤児であり、ローゼンフェルトの血を引く娘。偽物であり、偽物では、ない。
もう、震えるだけの、身代わりでは、なかった。この身に流れる血の意味を、この手に握る証の重さを、すべて抱いて、ミラは、あの神前へ、向かう。運命の、決戦の朝が、ゆっくりと、明けようとしていた。




