第二十六話 わたしは、ミラと申します
第二十六話 わたしは、ミラと申します
その夜も、王の私室には、灯りが一つだけ、灯されていた。
ミラは、昨夜、「儀のあとに、すべてを話す」と告げた。王は、待つと言ってくれた。それなのに、ミラは、今夜、自分から、この部屋へ来た。待てなかった。もし、あの神前で、血を照らされて、命を落とすなら。この人に、本当のわたしを、知られぬまま、死ぬのは、いやだった。
王は、窓辺に立ち、こちらを見ていた。何も、問わなかった。夜半に一人で訪ねてきた妃を、咎めもせず、ただ、ミラが口を開くのを、静かに、待っている。その静けさが、かえって、ミラの覚悟を、後押しした。この人は、待ってくれる。ミラが、どんな真実を告げても。
ミラは、一度、深く、息を吸った。胸の奥で、心臓が、痛いほど鳴っている。それでも、震える声で、切り出した。
「わたしは……アデルさまでは、ありません」
言ってしまった。ずっと、喉の奥に、氷のように閉じ込めてきた言葉が、こぼれ落ちた。
王は、動かなかった。ミラは、うつむいたまま、続けた。
「わたしの、本当の名は、ミラと申します。姓は、ございません。北のローゼンフェルト領で、洗い場の下働きをしていた、孤児です。母の顔も、覚えておりません。灰と、石鹸の匂いの中で、育ちました」
声が、震えた。それでも、止めなかった。
「二月ほど前、公爵さまに、見出されました。アデルさまと、顔が似ているという、ただ、それだけの理由で。断れば、口を封じると、脅されて。わたくしは、アデルさまの、身代わりです。あなたを、この宮廷を、ずっと、欺いてきた、偽物です」
言い終えて、ミラは、床に、膝をつきそうになった。すべてを、告げた。ずっと、たった一人で抱えてきた重荷を、初めて、この人の前に、下ろした。あとは、この人が、どう裁こうと。捕らえられても、処刑されても、仕方がない。それだけの、罪を犯した。
恐ろしかった。この人の目に、軽蔑が浮かぶのを見るのが。今まで交わした言葉のすべてが、嘘だったと、詰られるのが。けれど、それでも、告げずにはいられなかった。愛されるほどに、偽りの名が、胸を焼いた。この人が惹かれている「アデルハイト」は、どこにもいない。いるのは、灰まみれの、ミラだけなのだと。
王が、歩み寄る、足音がした。
顔を、上げられなかった。けれど、王の手が、そっと、ミラの頬に触れた。冷たい指が、いつのまにか、こぼれていた涙を、ぬぐった。
「知っていた」
静かな声だった。
「最初から、知っていた。そなたが、あの女でないことは。だが、今、初めて、聞いた。そなたの、本当の名を」王の声が、わずかに、和らいだ。「ミラ、というのか」
ミラは、顔を上げた。王が、まっすぐに、こちらを見ていた。そこに、軽蔑も、怒りも、なかった。
「本物か、偽物か。そんなことを、私は、とうに問うてはいない」王は、言った。「私が惹かれたのは、名でも、家柄でもない。氷の宮廷で、震えながら、それでも人を、まっすぐに見るお前だ。ミラ。……お前、という人間だ」
ミラの目から、涙が、あふれた。今度は、こらえなかった。
偽物として、震えてきた。名を偽り、顔を偽り、生きてきた。誰かに本当の自分を見られることは、露見であり、死だった。だから、隠すことだけを、覚えてきた。それなのに、この人は、その偽りの、いちばん奥にいる、ミラという娘を、見つけ出して、その名を、そっと呼んでくれた。ミラ、と。
母にさえ、呼ばれた記憶のない名だった。下働きの仲間には「おい」と呼ばれ、女主人には名すら覚えられず、この宮廷では「妃殿下」「アデルハイト」と、他人の名で呼ばれてきた。ミラという、たった二音の、自分の名。それを、この人は、まるで大切なものを扱うように、口にした。生まれて初めて、ミラは、他人の名の陰にではなく、自分自身として、そこに、立っていた。そして、そのままの自分を、愛されていた。
王は、ミラの手を取り、窓辺へ導いた。
二人で、月を見た。晩秋の月が、冷たく、澄んでいる。
「私の父を、殺したのは、オルグレンだ」王が、静かに言った。「証は、掴めなかった。長いあいだ。だが、そなたが、掴んでくれた。あの男が、アデルを陥れた、その綻びを。……同じ手が、私の父をも、葬ったのだ」
王の指に、力がこもった。
ミラは、その横顔を、そっと見た。父を、嘘に奪われた男。誰も信じられぬまま、氷の玉座で、たった一人、証を探し続けてきた。その孤独を、ミラは、知っている。丘の上で、聞いた。この人もまた、ミラと同じように、たった一人で、戦ってきたのだ。
「儀で、共に、討とう」王は、ミラを見た。「そなたの戦いは、もう、そなた一人のものではない。アデルの無念も、私の父の無念も、この国の正義も、すべて、あの神前で、決める。私は、王として、そなたの隣に、立つ」
「陛下」ミラは、涙をぬぐった。「わたくしは、あなたを、危うくしてしまいます。偽物を庇った王だと、宰相に、責められるかもしれません」
「かまわぬ」王は、迷いなく言った。「私は、もう、決めた。血でも、名でもなく、人を選ぶと。それで玉座を失うなら、そんな玉座に、しがみつく値打ちなど、ない」
ミラは、その手を、握り返した。震えは、まだ、あった。けれど、その震えの中に、確かな、熱があった。一人ではない。もう、一人ではなかった。二人の、たった二人の戦いが、あの神前で、宮廷のすべてを、覆そうとしていた。
深夜、居室に戻ると、クラーラが、最終の段取りを、確かめて待っていた。
「儀の前夜、公爵さまのもとへ。かねての、お約束です」クラーラは、声を落とした。「そして、日記の頁の奪還は、儀の、当日。祭りの雑踏に紛れて、宰相の懐から。危うい賭けですが、それしか、ございません」
ミラは、深く、頷いた。想いは、通じた。共に戦う王も、得た。もう、震えて繕うだけの偽物ではない。祭りの日まで、残された時は、指を折って数えられるほど。逃げ場は、どこにもない。それでも、ミラの胸に、恐れとは違う光が、灯っていた。窓の外で、晩秋の風が、近づく建国祭の朝を告げるように、静かに、鳴っていた。




