第三十話 わたしは、わたしとして、ここにいる
第三十話 わたしは、わたしとして、ここにいる
「お待ちください」
ミラの声が、神殿に、響いた。
振り下ろされかけた儀式刀が、神官の手の中で、止まる。参列者の、すべての目が、ミラへ、集まった。ミラは、掲げられた刃の下で、まっすぐに、顔を上げた。
「照合の前に、この神前に、偽りが、ございます」
声は、震えなかった。ミラは、袖の内から、三枚の紙を、取り出した。そして、宰相を、まっすぐに、見据えた。
「宰相オルグレン侯爵。あなたは、わたくしを、偽物と、告発なさいました。血は偽れぬ、と。ならば、紙も、また、偽れませぬ」
ミラは、一枚目の紙を、掲げた。
「これは、亡きアデルハイトさまの、死亡記録の写し。事故として、処理された、その日付です」二枚目を、重ねる。「そして、これが、アデルさまが、御自分の筆で、遺された、日記の、最後の頁。その日付は、死亡記録の、二日、あとにございます」
神殿が、ざわめいた。
「死んだはずの方が、その二日あとに、生きて、筆を執っておられた。おかしゅうございましょう。答えは、一つ。死亡記録の日付が、偽られたのです。本当の死の日を、隠すために」
ミラは、三枚目を、掲げた。宰相の書斎から、奪った、指示書の写し。
「これは、あなたの腹心の筆による、指図書。『ローゼンフェルトの令嬢の件、事故の体を、崩さぬよう』と。日付は、アデルさまの死の、少し前」ミラの声が、神殿の隅々まで、届いた。「日付の改竄。工作の指図。そして、殺される側が遺した、告発。この三つが、揃えば、アデルさまの死は、事故では、ございません。あなたが、仕組んだ、謀殺でございます」
宰相の、顔から、余裕の笑みが、剥がれ落ちた。
「世迷い言を」老臣の声が、掠れた。「偽物が、罪を逃れんとして、でたらめを」
「でたらめかどうかは」ミラは、静かに続けた。「この頁の筆跡を、そちらの筆跡官どのに、検めていただけば、分かること。先ほど、わたくしの花押を、検めた、あの目で」
筆跡官が、日記の頁を、受け取り、検める。長い、沈黙。そして、深く、頷いた。
「本物の、アデルハイトさまの、御筆に、相違、ございません」
宰相の、額に、汗が、浮かんだ。
「証人も、ございます」ミラは、廷臣の列を、振り返った。「クラーラ。前へ」
アデルの元侍女が、進み出た。氷の教官は、神前で、深く、頭を垂れ、そして、顔を上げた。その声は、もう、震えていなかった。
「わたくしは、アデルハイトさまの、専属の侍女にございました。あの夏の夜、お嬢様は、わたくしに、仰いました。宰相オルグレン侯爵の、企みに、気づいてしまった、と。陛下に、お伝えせねば、と。その、翌朝でございます。お嬢様が、庭の池で、事故として、冷たくなっておられたのは」
クラーラの証言が、神殿に、静かに、突き刺さった。
宰相は、後ずさった。反論を、探して、口を開く。けれど、言葉が、出てこない。日付の齟齬。工作の指図。告発の頁。証人の言葉。すべてが、一つの、動かぬ真実を、指していた。老獪な男は、自らの、周到すぎた工作の、その綻びに、呑み込まれていく。誰かに、罵られたわけではない。ミラは、ただ、事実を、置いただけだった。事実の、位置を、揃えて、示しただけ。黒幕は、自らの矛盾の中で、静かに、崩れていった。
「オルグレン」
祭主の座から、王が、立ち上がった。その声に、氷血の王の、抜き身の刃のような響きが、戻っていた。
「私の父も、病死とされた。お前が、いちばん熱心に、そう言った」王は、宰相を、見下ろした。「同じ手だな。事故に見せかけ、病に見せかけ、証を消す。だが、消しきれなかった。この娘が、お前の綻びを、一つずつ、拾い集めた」
王の手が、上がる。
「ヴィクター・オルグレン。前王謀殺、及び、ローゼンフェルト公爵令嬢謀殺の疑いにより、その身を、拘束する」
近衛が、動いた。ユリアンが、先頭に立って、宰相を、取り囲む。老臣は、もう、抗わなかった。ただ、信じられぬものを見る目で、ミラを、見ていた。震える、偽物の娘だと、侮っていた者に、すべてを、覆されて。廷臣の列の隅で、イレーネが、青ざめ、よろめいた。叔父の企みの、その駒であった娘は、後ろ盾を失い、崩れるように、その場に、頽れた。
神殿が、静まり返る中、公爵グレゴールが、進み出た。
「神官どの。血の台帳照合を、続けられよ」公爵の、重い声が、響いた。「ただし、この娘は、偽物ではない。私が、証す」
参列者が、息を呑んだ。公爵は、ミラの隣に立ち、神前に、告げた。
「この娘の名は、ミラ。私が、若き日に、身分違いの女との間に儲けた、隠し子。アデルハイトの、異母妹。まぎれもなく、ローゼンフェルトの、血を引く者だ」
どよめきが、神殿を、揺らした。
「血の紋を、照らすがいい」公爵は、血判台帳を、指した。「そこには、当主たる、私の血判も、遺されている。この娘の血は、アデルとは、一致せぬ。だが、私の血筋とは、確かに、繋がるはずだ」
神官が、儀式刀で、ミラの指先から、一滴の血を、採った。台帳の、血判と、照らす。長い、沈黙。神官の顔が、驚きに、染まった。
「確かに。ローゼンフェルト当主の、血筋に、連なる、血の紋にございます」
偽物ではなかった。ミラは、ローゼンフェルトの血を引く、公爵の娘。血の照合は、ミラを、暴くのではなく――その正当を、証した。詰みだったはずの、その一滴が、逆に、ミラを、救ったのだ。
儀式の、喧騒が、収まったあと。
王が、ミラの前に、立った。祭壇の光が、二人を、静かに、包んでいる。参列者が、廷臣が、神官が、固唾を呑んで、見守っていた。
「アデルハイトの、身代わりとして、そなたは、ここに立った」王の声は、穏やかだった。「だが、私が、選ぶのは、アデルハイトでは、ない。血筋でも、家柄でも、ない」
王は、ミラの手を、取った。荒れた、下働きの手を。もう、隠す必要の、ない手を。
「本物かどうかなど、とうに、問うてはいない。私が、妃に迎えるのは――ミラ。お前だ。震えながら、それでも、まっすぐに、人を見る。その、お前という、人間だ」
ミラの目から、涙が、こぼれた。今度は、恐怖の涙でも、負い目の涙でも、なかった。
偽物として、震えてきた。名を偽り、顔を偽り、いつ暴かれるかと、怯えて生きてきた。それが、今。灰にまみれた、名もない娘は、他人の名の陰にではなく、ミラという、自分自身の名で、この人の隣に、立っていた。
「はい」ミラは、頷いた。「わたくしは、ミラです。あなたの、隣に、立たせてくださいまし」
本物のアデルハイトの、名誉は、回復された。事故として葬られた令嬢は、宰相の謀略の犠牲者として、正式に、弔われた。ミラは、その墓前に、一輪の白い花を、手向けた。会うことの、なかった姉。けれど、その無念を、確かに、晴らした。
宮廷を揺るがした、内乱の火種は、消えた。
あれから、季節が、巡った。
春の、庭。ミラは、王の隣を、歩いていた。もう、指を、隠していなかった。荒れた手も、慣れぬ作法も、そのすべてが、ミラという人間の、来し方だった。
「まだ、震えるか」王が、ふと、訊いた。
「ええ」ミラは、微笑んだ。「きっと、一生。……でも、もう、逃げませんの。震えながら、進むのが、わたくしですから」
人は、生まれで、決まるのではない。恐れに抗って、その手で積み上げた、一つずつの行いが、その人の、価値を決める。氷血と呼ばれた王が、血でも名でもなく、一人の娘を選んだ、その意味を、宮廷は、少しずつ、学んでいくだろう。
春の風が、二人の間を、渡っていく。かつて、灰の匂いの中で震えていた娘は、今、自分自身の足で、確かに、ここに、立っていた。




