第二十四話 血は、偽れない
第二十四話 血は、偽れない
儀式書の間には、古い祈祷書の、黴びた匂いが満ちていた。
認証の儀の、最後の次第を確かめるために、ミラは神官に呼ばれていた。白い祭服の老神官が、分厚い儀式書を、ゆっくりと繰っていく。ミラは、その一つずつを、頭に刻んでいた。入場の作法。祈りの言葉。奉納の順。どれも、繕える。写せる。乗り越えられる。
けれど、最後の頁を、神官が開いたとき。
「そして、最後に」老神官の、しわがれた声が、静かに響いた。「妃候補は、家に伝わる血判台帳の前で、御身の血の、一滴をもって、本人であることを、照合されます」
ミラの、指先が、冷えた。
「血、でございますか」
「さよう」神官は、うなずいた。「御家の血筋は、代々、血判台帳に遺されております。ローゼンフェルト公爵家も、また。台帳には、亡き当主より、御息女アデルハイトさままで、その血判が、記されておる。当日、妃殿下の指より一滴を採り、その血の紋を、台帳の血判と、照らし合わせる。血の紋は、生涯変わらず、ひとりとして、同じものはございませぬ」
ミラは、その場に、立ち尽くした。
顔は、似ていた。作法は、写せた。筆跡は、盗めた。記憶は、繕えた。声は、選べた。それらは、すべて、人の目を、欺くものだった。人が見て、人が判ずるものだから、そこに、綻びを突く隙があった。
けれど、血は、違う。
血は、繕えない。写せない。盗めない。台帳に遺る、本物のアデルの血の紋と、平民の娘ミラの血が、一致するはずが、ない。神官が、二つを照らした瞬間、ミラは、神の前で、まぎれもない偽物として、暴かれる。機転も、観察も、そこには、入り込む隙が、髪一筋ほども、なかった。
初めてだった。これまで、どんな綻びも、頭を回して、繕ってきた。老女官の所作を写し、侍女の記憶をかわし、筆跡官の目を盗み、宰相の二重罠を凌いだ。凌げない壁は、なかった。どんな照合も、人が判ずるものである限り、その人の目を、欺く余地があった。
けれど、この血の照合だけは、違う。ミラの、生き延びるために磨いた、観察と機転という、たった一つの武器が、まったく、届かない壁だった。相手は、人ではない。神の名のもとに定められた、冷たい理だ。どれほど頭を回しても、灰にまみれた娘の血が、公爵令嬢の血に、なることは、ない。
背筋を、氷が、ゆっくりと這い上がった。あの神前に立った瞬間、ミラは、もう、繕いようのない偽物として、神と、宮廷のすべての目の前で、暴かれる。そして、断罪される。アデルと同じ運命が、今度は、ミラを待っていた。
居室に戻っても、ミラの手の震えは、止まらなかった。
「血判を、偽ることは」ミラは、クラーラに問うた。「できないの」
「できません」クラーラの声も、青ざめていた。「あれは、神官が、その場で、妃殿下の指から、直に採ります。すり替える隙も、あらかじめ細工する隙も、ございません。神の御前で、人の小細工の、通じる余地は、ないのです」
二人の間に、重い沈黙が、落ちた。詰み。逃れようのない、完全な詰み。ミラが、この宮廷で、どれほど巧みに凌いできても、最後の最後に、血が、すべてを、覆す。
けれど。
ミラは、震える指を、きつく握りしめた。恐怖の底で、あの、追い詰められたときだけ冴える頭が、ゆっくりと、回りはじめた。
「……照らされる前なら」ミラは、掠れた声で言った。「どう?」
「え?」
「血を照らされて、偽物と暴かれる。その前に、儀そのものを、止めればいい」ミラの目に、光が、戻った。「あの神前で、宰相さまの罪を、先に暴くの。アデルさまが、事故ではなく、殺されたことを。証拠を、突きつけて。そうすれば、儀は、混乱する。血の照合どころでは、なくなる。詰みの土俵、そのものを――ひっくり返すのよ」
クラーラの目が、見開かれた。
「ですが、妃殿下」その声が、震えた。「それは、あまりに、危うい賭けです。証拠を突きつける、その一瞬が、血を照らされるより、ほんの少しでも遅れれば、あなたは、罪を暴く前に、偽物として、口を封じられます。誰も、偽物の言葉になど、耳を貸しません」
「分かっているわ」ミラは、静かに言った。「けれど、ほかに、道はないでしょう。逃げれば、アデルさまの無念は、永遠に晴れない。おとなしく暴かれれば、わたしも、証拠も、消される。ならば、賭けるしか、ない。あの神前で、血を照らされる、その前の、ほんの一瞬に、すべてを」
薄氷の、活路だった。けれど、それしか、道はなかった。反撃と、露見。その二つが、同じ神前で、同じ一瞬に、交わる。先に暴くか、先に暴かれるか。そして、決定的な証拠、日記の頁は、まだ、宰相の懐の中。それを、あの神前で、どう奪うのか。ミラの頭の中で、勝ち筋は、まだ、細い糸一本にも、なっていなかった。すべてが、そのわずかな、順番と、めぐり合わせに、懸かっていた。
その夕刻、ミラが神殿の下見を終えて外へ出ると、門の前に、恰幅のいい影が、待っていた。
宰相オルグレンだった。すれ違いざま、老臣は、慇懃な笑みを浮かべ、足を止めた。
「いよいよ、近づいて参りましたな」宰相の声は、蜜のように滑らかだった。「王妃認証の儀。あの神前では、すべてが、明らかになりましょう。作法も、記憶も、筆跡も――そして、血も」
ミラは、答えなかった。
「血は」宰相は、ゆっくりと、ミラの耳元で囁いた。「偽れませんぞ」
それだけ言うと、老臣は、悠々と、去っていった。恰幅のいい背中に、勝ち誇りの余裕が、にじんでいた。この男は、もう、勝ったつもりでいる。血の照合という、誰にも覆せぬ切り札を、握っているのだから。
ミラは、その場に、縫いとめられた。血は、偽れない。あの言葉が、耳の奥で、氷の礫のように、いつまでも、鳴り続けた。黒幕は、勝利を、確信している。反撃の要石、日記の頁は、まだ、あの男の懐の中。それを奪う算段も、血を照らされる前に罪を暴く算段も、まだ、何一つ、定まっていない。ミラに残された道は、薄氷より、なお細かった。
晩秋の空に、建国祭の準備の花火が、一つ、力なく、打ち上がった。試し打ちの、その光が、ミラの立つ地面を、ほんの一瞬だけ照らして、また、闇に沈めた。祭りの日は、刻一刻と、近づいている。あの神殿で、すべてが、決する。生か、死か。勝利か、断罪か。逃げ場は、もう、どこにも、なかった。




