第二十三話 本命は、懐の中に
第二十三話 本命は、懐の中に
宰相の書斎は、蔵書の匂いで、重く沈んでいた。
警備が替わる、その半刻。ユリアンが外で見張り、クラーラが廊下で気配をうかがう。ミラは、灯りを絞った手燭だけを頼りに、宰相の書斎へ、忍び込んでいた。革表紙の書物と、古い羊皮紙。それに混じって、かすかに、宰相のいつも焚く香の匂いがした。
ミラは、部屋を、素早く見渡した。どこに、隠すか。周到なあの男が、決定的な証を。
目が、慣れていく。ミラは、部屋のものを、順に読んでいった。物の隠し場所は、必ず、その人の癖に出る。よく手を触れる場所には、埃がない。使わぬ場所には、均等に積もる。埃の薄いところをたどれば、その人が、日々、何に触れているかが、見えてくる。
宰相の卓は、几帳面に片づいていた。硯も、書物も、寸分の乱れなく並んでいる。それほど整った男が、書棚の一角だけ、背表紙の並びを、わずかに乱している。ミラの目が、そこで止まった。この乱れは、うっかりではない。よく開け閉てする場所ほど、完璧には、戻せないものだ。近づいて見れば、その奥の板の合わせ目に、指の脂の跡が、うっすらと光っていた。
(ここ)
ミラは、その板を、そっと押した。かたり、と、隠し棚が、口を開けた。下働きが、女主人の隠した菓子の在処を、いつも埃と指の跡で当てたように。
中には、几帳面に綴じられた書面が、幾束も、収められていた。
ミラは、一つずつ、検めていく。指が、震える。ここに、あるはずだ。アデルを陥れた、工作の証が。
あった。一枚の、指示書。宰相の腹心の筆で、「ローゼンフェルトの令嬢の件、例の段取りにて。事故の体を、崩さぬよう」と記されている。日付は、あの死の、少し前。まぎれもない、アデル排除を指図した、工作の裏づけだった。ミラは、それを、素早く写し取った。
けれど。
ミラの手が、止まった。ここには、あの「破り取られた日記の頁」が、ない。指示書はある。日付の改竄の証もある。けれど、いちばんの決め手、アデル自身が黒幕の名を書き遺した、あの頁だけが、どこにもなかった。
ミラは、隠し棚を、もう一度、隅々まで探った。ない。書斎の、どこにもない。
なぜだろう。ミラは、宰相の立場になって、考えた。指示書は、ここに隠した。日付を改竄した記録は、保管庫に紛れさせた。それらは、いざとなれば「知らぬ」「誰かが勝手に」と言い逃れられる、間接の証だ。だから、多少、人目に触れる場所にも置ける。けれど、あの日記の頁だけは、違う。あれは、アデル自身の筆で、黒幕を名指しした、直接の告発。あれを他人に見られれば、一巻の終わりだ。あの周到な男が、そんな切り札を、自分の目の届かぬ場所に置くはずが、ない。
肌身離さず、その懐に、持っている。ミラは、悟った。あの頁を奪えるのは、宰相と、じかに向き合う、その一瞬だけ。つまり――認証の儀の、あの神前でしか、ない。逃げ場のない、あの神前で、黒幕の懐から、証を引きずり出す。それが、ミラに残された、たった一つの道だった。
ミラは、指示書の写しを懐にしまい、隠し棚を、元通りに閉じた。埃の跡さえ、乱さぬように。
その夜半、ミラは、王の私室へ、密かに呼ばれた。
奪った裏づけを、王に報せるためだった。政の話ではない。けれど、この人にだけは、伝えておきたかった。王は、窓辺で、月を見ていた。ミラが、指示書の写しのことを告げると、王は、静かに頷いた。
「よくぞ、そこまで」王の声は、低かった。「あの男の尻尾を、掴む者は、この宮廷に、一人もいなかった。私でさえ、できなかったことを」
「まだ、決め手が、足りません」ミラは、正直に言った。「決定的な頁は、あの方の、懐の中に」
王は、しばらく黙っていた。それから、月から目を離し、ミラを、まっすぐに見た。
「なあ」静かな声だった。「私は、そなたが、誰なのか――最初から、知っていたのかもしれぬ」
ミラの、心臓が、跳ねた。
「あの謁見の日。玉座から降りて、そなたの顔を見たとき。あの女とは違う、と言った。あれは、疑いではなかった。……安堵、だったのだ。ようやく、この宮廷で、嘘をつかぬ目をした者に、会えた、という」
問い詰めではなかった。糾弾でもなかった。ただ、静かな、受け入れの言葉だった。
安堵。この人は、偽物の女に、安堵していたという。誰もが嘘をつく宮廷で、ただ一人、嘘のときに目を逸らさない女に、会えたことに。ミラは、胸が、締めつけられた。皮肉だった。ミラは、名も、素性も、偽っている。この宮廷でいちばん、大きな嘘を、生きている。それなのに、この人は、その大嘘の女の中に、いちばんの、まことを見つけたという。
この人は、ミラが偽物だと知りながら、その事実を、責めるのではなく、受け止めようとしている。ミラの目に、涙が、こみ上げた。今すぐ、この人の前に膝をついて、本当の名を、告げてしまいたかった。わたしは、ミラです、と。けれど、それは、まだ、できない。すべてが決する、あの神前の日まで。ミラは、こみ上げるものを、必死に、飲み下した。偽物という壁が、二人の間で、静かに、崩れはじめていた。
未明、居室に戻ると、クラーラが、一通の文を手にして、待っていた。
「妃殿下。公爵さまから、ご伝言です」クラーラの声が、いつになく、硬い。「儀の、前夜。必ず、お会いしたい、と」
ミラは、その文を受け取った。公爵グレゴール。娘の顔を持つ者を、あの湿った目で見た、あの人が。儀の前夜に、何を、語るつもりなのか。
ミラの胸に、宮廷の陰謀とは、別の予感が、静かに芽生えた。自分の、出自。母の顔さえ覚えていない孤児が、なぜ、北の公爵令嬢と、瓜二つなのか。あの肖像の、幼い日の癖まで、なぜ、分かち合っているのか。ずっと、はぐらかされてきた、その謎の答えが、あの前夜に、明かされるのかもしれない。
血の台帳照合。神前で、ミラの血が、公爵家の血と合わぬと、暴かれる詰み。けれど、もし、もし、ミラの血に、公爵家と繋がる何かがあるのだとしたら。ミラは、その考えを、慌てて打ち消した。そんな、都合のいいことが、あるはずもない。灰にまみれた下働きの娘に。それでも、公爵のあの湿った眼差しが、胸の奥で、消えなかった。晩秋の風が、窓の外で、冷たく鳴っていた。建国祭の朝は、もう、すぐそこまで来ていた。




