第二十一話 祝祭は、監視の檻になる
第二十一話 祝祭は、監視の檻になる
建国祭が近づき、宮廷は、色めき立っていた。
回廊には祝いの布が垂れ、庭では楽師が調べを合わせている。神殿へ続く道には、儀式のための花が、次々と運び込まれていた。晩秋の冷えた空気に、蜜蝋と、生花の匂いが混じる。華やかだった。けれど、ミラには、その華やぎのすべてが、閉じてゆく檻の格子に見えた。
部屋の外には、常に、宰相の目があった。
あの、保管庫での対峙から、半月あまりが過ぎていた。その間、ミラは、じっと、機を待っていた。迂闊に動けば、宰相に確証を与えてしまう。証拠を守り、王と想いを交わし、味方を増やしながら、ただ、建国祭のその日を、待つ。待つことしか、できなかった。
祝祭の下働きに紛れた男。花を運ぶふりの、見張り。どこへ行こうと、その視線が、絹の背に貼りついてくる。監視は、日ごとに、密になっていた。宰相もまた、儀のその日に、すべてを賭けている。ミラは、居室の窓から、庭の賑わいを見下ろした。あの神殿での、その日が、着実に、近づいていた。
卓の上には、あの夜、保管庫から写し取った紙が、広げられていた。
「これだけでは、足りないわ」ミラは、その紙を、指でなぞった。死亡記録の、日付の齟齬。宰相の書記官の署名。「日付が二日ずれている、というだけでは、書き損じだと言い逃れられる。神前で、宰相さまを崩すには、もっと決定的な、動かぬ証がいる」
「決定的な、証……」クラーラが、繰り返した。
「破り取られた、日記の頁」ミラは、顔を上げた。「アデルさまが、宰相さまの名を、はっきりと書き遺した、あの頁。あれが、いるの」
「考えてみて」ミラは、指を組んだ。「日付の齟齬は、こう言い抜けられる。『事故の混乱で、書き間違えた』と。書記官の署名も、『立ち会っただけ』と。一つずつなら、どれも、言い訳が立つの。宰相さまほどの方なら、いくらでも」
「では、あの頁は」
「あの頁だけは、言い抜けられない」ミラの目が、光った。「アデルさま御自身が、御自分の筆で、『あの方が仕組んだ』と書き遺したもの。殺される側が、殺す者の名を、遺した言葉。それと、この日付の齟齬を、神前で並べれば、事故という嘘は、崩れる。頁が、要石なの。それがなければ、他のすべてが、ただの言いがかりで終わる」
けれど、その頁は、宰相の手の中にある。ミラは、地図の上の、一点を見つめた。宰相の、書斎。あの周到な男が、決定的な証を隠すとすれば、自らの目の届く場所――書斎をおいて、ほかにない。あるいは、肌身離さず、懐に。
「奪い返すのよ」ミラは、静かに言った。「あの頁を。宰相さまの、書斎から」
クラーラの顔が、こわばった。無謀だ。そう言いたげだった。けれど、ミラの目を見て、その言葉を、飲み込んだ。この娘は、もう、震えて繕うだけの偽物ではない。亡き主の無念を、その手で晴らそうとしている。
昼、ミラは、認証の儀の下見に、神殿へ赴いた。
石造りの神殿は、しんと冷たく、高い天井に、祈りの声が反響していた。香の煙が、細く立ちのぼっている。神官が、儀の次第を、一つずつ説いていく。ミラは、うなずきながら、その手順の、どこかに、機転で潜り込む隙がないかを、必死に探していた。
けれど。
探すほどに、ミラの背は、冷えていった。この儀式には、隙がない。作法は、写せる。記憶は、繕える。筆跡さえ、盗める。それらは、すべて、人が人を見る照合だった。人が見るものには、必ず、目を逸らす一瞬がある。気を逸らす綻びがある。だからミラは、これまで、その一瞬を突いて、凌いできた。
けれど、神前の照合は、そのどれとも、違った。神官は、ミラの顔を見ない。作法も、言葉も、見ない。ただ、定められた次第を、寸分の狂いもなく、進めるだけだ。人ではなく、儀式そのものが、事実を照らす。そこには、綻びを突く隙も、機転で滑り込む余地も、どこにもなかった。厳格に、冷徹に、ただ、血と、記録だけが、真偽を決める。ミラが、生き延びるために磨いてきた、観察と機転という唯一の武器が、この神前では、まったく、通用しない。
祭壇の脇に、宰相が立っていた。下見に立ち会う権を、うまく得たのだろう。ミラと目が合うと、老臣は、余裕の笑みを浮かべ、ゆっくりと頭を垂れた。勝ちを、確信した者の笑みだった。
(機転では、越えられない)
ミラは、悟った。この神前で、偽物として振る舞い続けることは、できない。ごまかしは、通じない。ならば、道は、一つだけ。逃げるのでも、繕うのでもない。この儀の場そのものを、ひっくり返す。宰相の罪を、神前で暴き、儀の意味を、根こそぎ、覆す。正面から、真実で、突破するしかない。
背筋を、恐怖が這った。けれど、その恐怖の底で、ミラの覚悟は、かえって、澄んでいった。
夕刻、居室に戻ると、窓辺に、影が一つ、立っていた。
ユリアンだった。剣を佩いた長身が、暮れかけた光の中に、静かに佇んでいる。
「妃殿下」低い声だった。「一つ、お耳に入れたきことが」
ミラは、身構えた。けれど、この騎士の目には、もう、あの刃のような警戒は、なかった。
「宰相オルグレン侯爵の書斎は、夜半、警備が手薄になる刻限がございます」ユリアンは、前を向いたまま言った。「祝祭の警邏に、人手を取られる、ほんの半刻ばかり。……独り言です。聞き流してくださって、結構」
それだけ言うと、ユリアンは、一礼し、闇の中へ消えた。
ミラは、その背を見送った。かつて、夜の回廊で刃のような目を向けてきた騎士が、今は、命がけの糸口を、独り言に託して置いていく。味方が、また一人、そっと、手を差し伸べていた。クラーラ。ユリアン。そして、言葉にはせず道を空ける、王。震えるだけの偽物だった娘の周りに、いつのまにか、真実を信じる者たちが、集まっていた。
奪還への、糸口は掴んだ。残るは、宰相の書斎から、要石の頁を奪い出すこと。ミラは、冷えた指を、静かに握りしめた。祝祭の日へ向けて、時は、音もなく、過ぎていこうとしていた。その朝、あの神殿で、ミラは、偽物の仮面を脱ぎ捨て、真実だけを武器に、黒幕と向き合うことになる。




