第二十話 そなたが誰であろうと
第二十話 そなたが誰であろうと
王の私室に、その夜、灯りは一つだけ灯されていた。
政務の書は、片づけられていた。卓の上には、ただ、二つの器と、湯気を立てる茶がある。ミラが入ると、王は、窓辺に立っていた。振り返ったその顔は、玉座の氷でも、丘の緩みでもない。何か、決意を秘めた、静かな顔だった。
「呼び立てて、すまぬ」王は、器の一つを、ミラのほうへ滑らせた。「儀の前に、そなたと、二人で話したかった」
ミラは、器を受け取った。指先に、温もりが伝わる。人払いをして、この人が、自ら淹れた茶だ。毒見も、侍女も、いない。その心遣いの一つずつに、胸が疼いた。
「認証の儀の日取りが」王は、静かに言った。「建国祭の朝と、正式に決まった」
ミラの、指が、こわばった。来る。逃れられない、あの神前が。
「陛下」ミラは、器を置いた。今、言わなければ。この人を、これ以上、欺けない。「わたくしは、申し上げねばならないことが」
「言うな」
王の声が、静かに、けれど強く、それを遮った。
ミラは、顔を上げた。王が、まっすぐに、こちらを見ていた。
「言えば、そなたは、後戻りできなくなる。私も、聞けば、王として、動かねばならなくなる」王は、一歩、近づいた。「だから、言うな。……私は、もう、とうに知っている」
心臓が、止まった。
「そなたが、北の令嬢でないことを。あの女とは、まるで違う人間であることを。指の傷も、慣れぬ作法も、震える手も。私は、最初の日から、気づいていた」
ミラの目に、涙が、こみ上げた。知られていた。最初から。あの謁見の日、「あの女とは、違うな」と言われた、あの瞬間から。それでも、この人は、庇い続けた。踊りのステップを教え、北の花を贈り、ユリアンに道を空けさせた。すべて、偽物だと知りながら。ミラが必死に隠してきた綻びの一つずつを、この人は、とうに見抜いて、その上で、見て見ぬふりをしてくれていたのだ。
「なぜ」ミラの声が、掠れた。「なぜ、暴かなかったのですか。わたくしは、偽物です。あなたを、欺いてきた。ひと言、お命じになれば、わたくしなど、いつでも消せたはずです」
「嘘を数えるのが、私の生き方だった」王は、ミラの頬に、そっと手を伸ばした。冷たい指が、涙をぬぐう。「誰も信じず、綻びだけを見て生きてきた。だが、そなたの前でだけは……その、数えるのを、やめたくなるのだ」
王の声は、静かだった。けれど、その静けさの底に、長いあいだ一人で耐えてきた男の、剝き出しの本心があった。
「そなたは、偽物の名を騙りながら、私に、ただの一度も、心の嘘をつかなかった。嘘のときは目を逸らさず、震える手を隠さず、私をさびしいと言った。名は偽りでも、そなたという人間は、この宮廷で、いちばん、まことだった」
偽物だと知りながら、その偽物ごと、この人は、選ぼうとしている。いや、違う。この人は、アデルハイトという名ではなく、その名の下で震えてきた、ミラという娘そのものを、見ていた。ずっと。ミラは、こらえきれずに、涙をこぼした。わたしは、ミラです。喉まで出かかった、その本当の名を、ミラは、まだ、言えなかった。けれど、この人は、名を聞かずとも、もう、ミラを見つけていた。言葉には、ならなかった。ならないまま、二人の想いは、灯りの下で、確かに、交わっていた。
しばらくして、二人は、夜の回廊を歩いた。
どちらからともなく、部屋を出ていた。冷えた石の廊下に、二人の足音だけが、低く響く。月あかりが、高い窓から、青白く差し込んでいた。
「儀の日」王が、前を向いたまま言った。「宰相は、そなたを、偽物として暴くつもりだろう。血の台帳照合で」
「ご存じ、でしたか」
「あの男の考えることは、読める。父を奪った、あの手の動きは」王の声が、低くなった。「だが、私は思うのだ。その儀の場を――そなたの、戦いの場にすればいい、と」
ミラは、足を止めた。王を見上げる。
「暴かれるのを、待つな。そなたが、暴くのだ。あの神前で、宰相が隠してきたものを」王の目に、静かな炎があった。「私は、王として、正しく儀を執り行うだけだ。そこで何が起きるかは、そなた次第だ。私は、そなたの掴んだものを、信じる」
ミラは、王の言葉の裏を、じっと読んだ。「正しく儀を執り行うだけだ」。それは、王が、ミラを助けるために不正はしない、という意味だ。この人は、嘘に殺された父を持つ。だから、たとえ愛する者のためでも、嘘で儀を歪めることは、しない。できない。それが、この人の、譲れない一線だった。
けれど、その代わりに、王は、道を示していた。「そなたが、暴くのだ」と。助けはしない。だが、ミラ自身が真実で立つのなら、その真実を、王として信じる。庇うのでも、代わりに戦うのでもない。ミラを、一人の対等な人間として、その戦いに、送り出そうとしている。
ミラの胸に、覚悟が、固まっていく。これほど深く信じてもらったことは、生まれて一度もなかった。灰にまみれた下働きの娘を、一人の人間として、信じてくれる人。この人のためにも、偽物のまま、震えて終わるわけには、いかない。あの神前で、すべてを、ひっくり返す。ミラ自身の手で。
「陛下」ミラは、月あかりの下で、まっすぐに王を見上げた。「わたくしは、あの神前で、逃げも隠れもいたしません。ご覧になっていてくださいまし。わたくしが、何者であるかを」
王は、答えなかった。ただ、その口の端が、ほんのわずか、和らいだ。それが、二人の交わした、言葉のない約束だった。
深夜、居室に戻ると、クラーラが、正式の触れを手にして待っていた。
「決まりました」クラーラの声は、硬かった。「王妃認証の儀は、建国祭の朝。神殿にて、血の台帳照合を経て執り行われる、と」
ミラは、その触れを受け取った。上質な紙は、指の腹に吸いつくほど滑らかで、そして、氷のように冷たかった。
絶体絶命の舞台と、その期日が、確定した。反撃の証拠を握り、想いを交わした王を背に、ミラは、たった一人で、あの神前に立つ。晩秋の風が、窓の外で、迫りくる建国祭の朝を告げるように、乾いた音を立てて、冷たく鳴っていた。




