第十九話 署名の日付が、嘘をつく
第十九話 署名の日付が、嘘をつく
文書保管庫は、幾百年ぶんの紙の匂いで、むせ返るほどだった。
ユリアンの空けた道を通り、ミラは、灯りを絞った手燭だけを頼りに、棚の間を進んだ。埃と、乾いた革と、古いインクの匂い。息をするたび、喉の奥が、ざらつく。クラーラが、扉の外で、見張りに立っている。ミラに許された時間は、長くはない。
目当ての棚は、すぐに知れた。近年の、死亡記録を綴じた棚。ミラは、この二か月のあいだの綴りを、そっと引き出した。指が、震える。ここに、本物のアデルの死が、どう書かれているか。
頁を繰る。あった。
アデルハイト・フォン・ローゼンフェルト。死亡。事故。立会人の署名が、三つ。日付が、記されている。
(この日付を、覚えておかなければ)
ミラは、その日付を、頭に焼きつけた。そして、懐から、日記の写しを取り出した。あの夜、私室で読んだ、アデルの最後の記述。ミラは、それを、寸分たがえず書き写して、持っていた。
二つを、並べる。
日記の、最後の頁の日付。アデルが、震える筆で「あの方が仕組んだ」と書いた日。それは、死亡記録の「事故の日」の――二日、あとだった。
ミラの、指が、止まった。
(合わない)
死亡記録では、アデルは、ある日に事故で死んだことになっている。けれど、日記のアデルは、その二日あとに、まだ生きて、筆を執っていた。死んだはずの日の、あとに。つまり、死亡記録の日付は、偽りだ。誰かが、本当の死の日を隠すために、事故の日付を、繰り上げて書いた。
なぜ、日付を、動かす必要があったのか。ミラは、下働きの目で、その謎を、たぐった。人が記録の日付を偽るのは、本当の日に、隠したい何かがあるときだ。本当の死の日には、都合の悪い立会人がいたのかもしれない。あるいは、その日、宰相自身が、本来いるはずのない場所にいた、という証言が残ってしまうのかもしれない。だから、事故を、二日繰り上げて、別の日に起きたことにした。辻褄を合わせるために。
けれど、その工作は、一つ、見落としていた。アデル自身が、その二日のあいだに、まだ生きて日記を書いていたことを。殺す側は、日付を動かせても、死者が遺した筆の日付までは、消せなかったのだ。
ミラは、立会人の三つの署名を、もう一度見た。そのうちの一つに、見覚えのある名があった。宰相オルグレンの、腹心の書記官。舞踏会の夜、宰相の傍らに控えていた、あの男だ。
これだ。これが、綻びだ。丸ごと作った嘘の、日付という継ぎ目。ミラは、その頁の日付と、三つの署名を、素早く、手元の紙に書き写した。震える指で、一画も違えぬよう、慎重に。これは、動かぬ、工作の証だった。この一枚が、宰相を、崩す。
綴りを棚へ戻し、身を翻したときだった。
棚の陰から、恰幅のいい影が、ゆっくりと現れた。
「熱心なことだ」
宰相オルグレンだった。慇懃な笑みを、闇の中でも崩さない。ミラの心臓が、凍りついた。いつから、そこにいた。見られていたのか。手元の紙を、ミラは、そっと袖の内へ滑らせた。
「令嬢が、このような場所へ、夜更けに一人とは」宰相は、ゆっくりと近づいた。「何を、お探しかな」
「亡くなった方の、記録を」ミラは、声を落ち着けた。真実の隣へ、嘘を寄せる。「アデルハイトとして、弔いの作法を、確かめておきたかったのです。故人を悼むのに、夜も昼も、ございませんもの」
「ほう」宰相の目が、細くなった。ミラの言葉を信じてはいない。けれど、証もない。「妙な妃殿下だ。以前の令嬢は、埃臭い書庫など、足を踏み入れもしなかった」
二人の間に、張り詰めた沈黙が落ちた。
ミラは、宰相の目を、じっと読んでいた。この老臣は、ミラが何かを掴んだと、察している。けれど、それが何かは、掴めていない。もし確証があれば、この場でミラを捕らえ、袖を探らせているはずだ。それをしないのは、できないからだ。証がない。ミラの袖の内の紙のことを、宰相は、まだ知らない。ミラは、その一点に、賭けた。顔にも、指先にも、勝ちを掴んだ気配を、一切、出さない。ただ、故人を悼む妃の顔だけを、貼りつけておく。
宰相もまた、ミラの目から、何も読み取れずにいた。この平らな老臣の顔に、初めて、かすかな苛立ちが滲む。互いに、手の内を見せない。静かな、探り合いだった。やがて、宰相は、袖の中で手を組んだ。
「まもなく、王妃認証の儀がございます」老臣は、微笑んだ。「あの神前では、すべてが、明らかになる。血も、真偽も、隠しごとも。……何もかも、あの日に、片がつきましょう。楽しみなことです」
それは、宣戦だった。ミラは、袖の内の紙を、握りしめた。
未明、居室へ戻ったミラを、クラーラが待っていた。
「掴みました」ミラは、書き写した紙を見せた。「日付が、二日、ずれている。宰相の書記官の署名も。これは、アデルさまが事故ではなく、日付を操作して殺された、動かぬ証拠よ」
クラーラの顔に、初めて、希望の色が差した。けれど、それは、すぐに翳った。
「ですが、妃殿下」クラーラの声が、震えた。「宰相は、あなたが動いていることを、もう、確信しています。あの方は、認証の儀を待つでしょう。そして、あの神前で――血の台帳照合で、あなたを、偽物として、断罪するつもりです」
ミラは、窓の外を見た。晩秋の夜が、白みはじめている。反撃の刃は、掴んだ。けれど、その刃を振るう神前で、ミラ自身の血が、偽物だと暴かれる。
勝機と、死が、同じ一日に、待っていた。宰相を崩す証拠を、神前で突きつける。けれど、その前に、血の台帳照合で、ミラは偽物と暴かれ、口を封じられるかもしれない。順番次第で、勝ちも負けも、ひっくり返る。証拠を出す一瞬を、間違えれば、すべてが、水の泡になる。
それでも、ミラの胸には、震えとは違う、静かな熱があった。あの、池で冷たくなった令嬢の無念を、晴らせるかもしれない。たとえ、その先に、自分の破滅が待っていたとしても。建国祭の、認証の儀。もう、逃げ場は、どこにもなかった。あとは、あの神前の日まで、この一枚の証拠を、守り抜くだけだ。




