50 修一、キレる
「ねえ――」
誠の攻撃の手は緩むところを知らず、とはいかなかった。始業を告げるベルがなり、担任の先生が入ってきたからだ。
ほっ、と一息。もうこれで追求されることはない、一時の平穏を得たことに、修一は確かな幸福を感じていた。
「それで話の続きなんだけどさ」
二時間目の体育の授業が始まり、かけっこの順番待ちをしている修一の後ろにぴたりとつく影があった。
背筋の凍るような寒気を感じる。親に内緒でホラー映画を見た時のような恐怖に、修一は飛び上がって振り返る。
「な、なんだよ急に!」
「いやただ話がしたいなぁって」
「僕はしたくない!」
はっきりと拒絶しても、飄々と、柳に風。悪意ない表情で誠は笑っていた。余裕を感じる態度が修一の神経を逆撫でて、いやいや落ち着け、ここで駄々を捏ねたとして損するのは自分だと己を律し、静かにスタートの体勢を取っていた。
構うから図に乗るのである。若いうちからその真理にたどり着いた少年は視界の端でちらちら揺れる羽虫のような存在から目を離して前を見る。先の人は既にゴールしている、まもなく、ようやくこの状況から抜け出せるのだと考えるだけで足から羽が生えたように軽くなる。
「あ、走るの? じゃあ競走でもする?」
「……」
無視である。順番などないとしても誠と一緒に走りたい生徒は何人もいる。その恨みがこもった目線を背中に受けながら、修一はゴールのみを視界に入れてその時を待っていた。
横では誠が手足を振りながら準備を始めている。半年以上同じ学舎で学ぶ者として、その実力は知っている。決して楽な勝負ではないことが、かえって心地よかった。
「よーい――」
来る。
「――ドン」
来た。
直後、跳ねる。イメージは兎。
童話に出てくる兎は慢心して寝てしまうが、今は短距離走。最速でゴールを通過すること以外何一つ考える必要はなかった。
その横で、風が過ぎる。
それは思わず見とれてしまうほど、完璧な形だった。高く腿を上げ、強く地面を振り、大きく腕を振る。後ろから隣へ、隣から前へ。その背中を目で追うようになって初めて修一は追いつけないことを悟っていた。
努力でどうにかなる段階を超えている。いっそすべて諦めるほうが利口だったと、納得してしまいそうになって――
「あっ――」
足が。
短い足は気をとられている間に、簡単にもつれて。
地面が迫る。
「えらいじゃん」
保健室。
白が目に刺さる場所で、付き添いの誠が感想を漏らしていた。
地面を滑るように、盛大に転んだ修一は、目に涙を湛えたものの、一滴たりとも零さず、押し殺した嗚咽でとどめていた。それでもひとりで歩くには支障があり、クラス委員である誠が肩を貸したのだった。当然修一は強がったのだが、授業を妨害し続けることによる周囲の目には勝てず、苦虫を噛み潰したような表情でなすがままに運ばれていた。
その気高い精神を誠は褒めたのだ。ただそれは逆効果なのだけれど。
「そうね、えらいえらい」
ただ賛同する人もいた。保健室の先生、養護教諭である。輝かしい純白の白衣を身にまとい、長い髪は後ろで束ねている。他の先生の年齢が高いこともあって、生徒の間では人気があった。
とはいえ子どもと大人、そして彼女は既婚者である。いくら超恋愛主義だとはいえ、節操がないのとは違う。簡単に言えば憧れであり、大人への階段を上ることでもあった。
しかし、そんなこと関係ないと言えるのが修一だった。狂犬のように荒れ狂い、どんな意見にも相手にも真っ向から反発する、と考えていたのは誠だけで、当の本人は借りてきた猫のように大人しく俯いていた。消毒液を染み込ませた脱脂綿を押し当てられても歯を食いしばり、一言も喚いたりしないところを褒められてもしおらしく頷くだけ、その様子を見て誠は「……なるほど」と、ひとり勝手に納得していた。
「――はい、これで大丈夫ね?」
「うん……」
処置が終わる。膝を大きく擦りむいたからといって寝込むような症状ではないのだ、これ以上保健室にいる理由はなかった。
しかし、修一は座ったまま動かない。
理由は言わずもがな、そしてそうは問屋が卸さない。
「ほら、帰るよ」
「……」
「修一くん、頑張ってね」
「……うん」
傍から見れば誰だと疑いたくなる変貌っぷりである。修一はゆっくりと立ち上がると、名残惜しそうに視線だけ残して保健室を後にしていた。
世の中何かにつけて恋愛が持て囃されている。日本では九世紀頃に竹取物語が、世界では紀元前二世紀に『ダフニスとクロエ』という恋愛小説があったのだ、古今東西恋愛というジャンルは物語を作る上で切っても切り離せない大事な要素として成り立っていた。
娯楽として、教育として。時には反面教師として。もはやDNAに刻み込まれていると言っても過言ではないほど、恋愛とは身近であり崇高とされていた。
しかし、それは全て傍観者側の意見であり、当の本人達はただただ痴話でしかない。誰が好き好んで自分のことを語りたいというのだろうか、さりとて隠せば隠すほど追求の手が迫るのも事実であり、己の恋慕をひた隠しにする人は一定数存在していた。
修一もそのひとりである。いや、そのひとりだったと言った方が正しいか。もじもじと意気地無しのようにしていた保健室を出て一息つくと、もっともバレて欲しくない人に自分の痴態を目撃されたと今更になって気がついていた。
このままではまともな精神で学校生活を送れないことは一目瞭然であり、かといって誠に懇願するなどプライドが許さない。最も短絡的な解決が脳裏を掠めた時、先を歩く憎々しい存在が足を止めて振り返っていた。
「あのさ、先生が好きって普通のことなの?」
何を言うかと思えば歯に衣着せぬ、傷を抉るような所業に、誠が鈍感で気付かなかったのではという望みは絶たれていた。
それも言い方が姑息である。分かりやすく揶揄するならばともかく、自制を促すような言葉に修一は眉間の皺を深く刻んでいた。
「……何が言いたいんだよ」
「そのままだけど。なにか変なこと聞いた?」
聞いた。修一は首を縦に振る。
相手は大人、つまり既婚者である。既に家庭があって子どもも産んでいる。それ自体はまだどうにかなる話ではあるが、この恋慕、叶えようとするならばその家庭に受け入れられる必要があった。それはしっかりとした経済基盤を作らねばならず、年の差という現実的な問題にも向き合わなければならない。
それでもできる人はできるだろう。しかしそれが最も賢い選択かは話が別である。男女ともに売り手買い手市場であるから、わざわざ幼き恋心を大事にする必要は求められていなかった。
総論として、誠の発言は安っぽい幻想なんて見ていないで、現実に戻ってこいというのと同義だった。
「……そんなこと」
「ん?」
「そんなこと、わかってるっての!」
淡い、いつか弾ける夢だとしても、修一の今の感情は現実だった。それを頭ごなしに大人の意見で蓋をされれば、怒りを抱くのも当然である。
怒気が暴発する、所詮は他人である誠の胸ぐらをつかみ、絞るように持ち上げる。
「悪いのかよ!」
「いや、知らないよ。悪いかどうか僕に判断着く訳ないじゃん」
「そういう態度がムカつくんだよ」
言い放ち、押しのけて足を引きずりながら修一は教室へと向かう。その後ろで誠は反省の色ひとつ見せず、むしろ得したような笑みを不気味に浮かべていた。




