39 誠、修羅場に残される
ブルース・スミス、マーガレット・スミス。ジョーンの両親の名前である。
公園から場所を移して一行は現在カフェで一息ついていた。地元でも有名なカフェテリアは古風ながら品があり、有り体にいえばごく一般的な庶民である誠には居ずらいものということだ。
注文はアメリカン。ジョーンらのように格好よくエスプレッソと行きたいところだがなにぶん子供らしい子供舌には苦味が強く、まだその域に達していない。そもそも真由曰く、子どもにコーヒーは身体に良くないと禁止されているため、目を盗んで飲むしかなかった。
それはこの世界で知った嗜好品である。胸の中で膨らむローストされたナッツやカラメルのような香り、舌の上で踊る苦味に追いかける酸味。最後に水の味が余韻として残る、目が覚める刺激的な風味でありながらさざ波のように引いていく味わいに誠は惹かれていた。
なので当然ブラックである。それを見たブルースは、
『無理はしなくていいんだよ?』
「あ、いえ。好きなので」
自分の言葉を証明するように誠はカップへ口をつける。そこまで造形が深くなくとも雑味を極限まで排した黒い液体は、湯気ですらすでに美味であることを示していた。
嚥下、一息。もはや言葉もいらない。
『変わってるでしょ?』
『確かにな』
褒められるより珍獣を見る目でジョーン親子は感想を漏らす。慣れてしまえばどうということもなかった。
その後は他愛のない会話が続く。なにぶん空白の時間が多いのだ。インターネットで調べればある程度活動内容がお互いわかるとはいえ全てではない。自分の言葉で語ることが大事だった。
どれだけ話しても話し足りないのはわかっていた。しかし時間は有限で、いつまでもこのままではいられない。およそ一時間が経過したあたりで、誠が時計を気にし始めていた。
「すみません、そろそろ……」
気後れしながら会話に割り込む。申し訳ないと思いつつも本題はブルースの話ではないのだ。
『あ、あぁ……そんなに話し込んでいたか。その前にひとつ、遅くなったが今まですまなかった』
名残惜しみ、深い後悔を添えて。ブルースはジョーンに頭を下げる。
過去は変えられないなんて当たり前のことで、当時の苦痛を知る人も本人のみである。が、ジョーンはしばらく何も言わず、そして、
『父さん、頭を上げてよ。三十年も経ったんだ、もう意地を張ってる理由すらわからなくなったよ。父さんがよければ、家に帰らせて欲しい』
『馬鹿なことを言うな。あそこはお前の家でもあるんだ、何時でも帰ってこい』
許しを乞い、許された。ブルースの目は潤み、皺の多い手は力強くジョーンの手を包み込む。
これ以上先にもう誠は必要ない。時間とお互いを思いやる気持ちだけが関係の改善を促すのだ。誠は朗らかな光景を見て、満足そうにコーヒーをすすっていた。
父親との邂逅は十分以上の成果をもたらしたが、これからが本題である。
ジョーンの実家、再び。今度は家主もいるため難なくマンションの中に入ることができていた。
目的地は十八階、感情を置いていくようにエレベーターは上へ向かう。
ポーンという気の抜けた到着音の後、扉が開く。外観からわかっていたが、おそらくそれなりに高級だという雰囲気が出ている。なにせ床がカーペット張りなのだ、細かなことだがそれだけで敷居が違うように思えてしまう。
『先に話しておくから』
そう言ってブルースはある扉の中へ入っていってしまう。閉じた扉が次に開く時、それが決意の時だった。
ジョーンの喉がごくりと鳴り、ぐっと握られた手は白いままである。緊張は恐怖によるものか、期待によるものか。一番近くにいる誠にすら窺い知ることはできなかった。
声をかける余裕もなく、堅牢な扉はいとも簡単に開く。中から出てきたブルースは、表情変わらずまず誠の手を引いていた。
本題は後に取っておく、にしても知らない異邦人が急に来たら、それはそれで驚くのではなかろうか。誠は適当なことを考えながら指示に従っていた。
窓の縁に手を当て、木製の椅子に座るご婦人がいる。歳は還暦ほどだろうか、しわの数が人生の苦労を物語っているようである。
彼女は生気のない目で誠を見ていた。お互い反応に困っているのか言葉はなく、微妙な空気だけが漂っていた。
こうなることは誠の中で想定済みである。だから早く本題が来て欲しいとも考えていた。
程なくして誠の背後から足音が近づいてくる。女性の目線が上がり、新たな来訪者を見つけると、瞳孔が開き白磁のように白かった肌がみるみる赤みを帯びていた。
『ジョーン……?』
『……久しぶり、母さん』
双方声を絞り出す。そのまま時が止まったようにぴたりと動かず、しかし先に動いたのは女性、マーガレットだった。
『――出ていって!』
『マーグ!』
拒絶に叱責。それでもそっぽを向いて取り合おうとしないマーガレットにブルースが歩み寄ろうとして、腕を持たれる。
ジョーンが、引き留めていた。
『父さん、大丈夫だから』
『しかし……』
『急にごめん。母さんの気持ちも考えないで帰ってきて……また来るね』
無理のある笑顔を浮かべてジョーンが踵を返す。その背中をブルースが追い、室内には静寂が訪れていた。
……。
一部始終を見ていた誠は何故だろうか、まだ部屋にいた。いや、明確な理由はあるのだけれど、まさか去り際ジョーンについてくるな、と掌を向けられると思っておらずただ固まっていたのだ。
その意図はなんだろうか。頭を悩ませるまでもない。発破をかけたのだからその後のフォローまで任せるということ。
無茶言うな、と誠は苦笑い。今日あったばかりの相手、それも子どもにそこまでマーガレットが胸襟を開くなんてことがあるだろうか。
考えが破綻しているな、と確信するも、素直に残ってしまった今なにもなしに部屋を出るわけにもいかなくて。石像のように気配を消していたつもりがいつからか視線が突き刺さっていることに気付いてしまう。
場が持たなくて、必殺の愛想笑いも効果なし。十全に役目を果たせないことへいくらか申し訳なく思いながら誠は頭を下げてゆっくり退室しようとしていた。
『――あなたは誰なの?』
ごく自然で当たり前な質問に誠の足が止まる。問われたならば仕方ないと、襟を正し、
「僕の名前はマコト スズキ。ジョーンさんとは親が仕事上の関係があって、その時出過ぎた真似をしたせいでマーガレットさんと逢う決心をさせてしまったため、その付き添いをさせられています。深いことは聞かないでください、僕にもわからないので」
『え、えぇ……大変なのね』
色々聞かれても困るからと、誠は封殺するように、先に全てを伝えていた。しかし言っている本人ですら訳が分からないのだ、マーガレットが困り果てる顔を浮かべるのも仕方がないことだった。
「迷惑なら出ていきますよ?」
『……あの子、何か言っていた?』
「いえ、特には。他人に言うような内容でもないですし」
『そう……』
「気になりますか?」
誠は真面目に問う。
それは糸口に見えていた。なんだかんだ言っても母親なのだ、子を気にかけることぐらい当たり前だった。
誠は知っていて、そして知らない。デジタルタトゥーという言葉がある通り、一度インターネットに出てしまった情報は簡単には消せず、誰もが容易に調べ着く世の中になってしまった。事の大まかな顛末は知れても、そのたった数ページの記事で人生を語り尽くせるはずがなく、一日一日をどう生きていたかなど当人以外知る由もなかった。
それでも断片的な情報でわかることもある。
「いいんじゃないですか、許してあげても」
『許す? 許されるではなくて?』
「はい。ジョーンさんと自分自身を、です。少なくともジョーンさんは一歩踏み出そうとしています、それを後押しするのも親の役目ですよ」
『けれど……』
「悪いと思っているならなおのこと、ですよ。あの歳まで結婚してないのも自分がちゃんと父親になれるのか、悩んでいるからじゃないですか。良くも悪くも母親の影響は一生残る傷なんです、でもそれにはまって抜けない沼になってはいけない、子どもはいつか飛び立つ白鳥なんですから」
ほとんど推測であるが、ジョーンが結婚していないのもまた事実。虐待を受けていた親が子を虐待するケースも多々あり、あの真面目な性格では下手なリスクを抱えたくないと考えても遠くない意見だった。
唐突に饒舌で問い詰められ、返答はしばらくなかった。また言いたいだけ言ってしまったと、誠が軽く自責の念に駆られていると、
『ねぇ、あなたのお母さんとジョーンが結婚する予定なの?』
「えっ!? 気持ち悪いこと言わないでください。ジョーンさんに失礼ですよ」
『……あなたの母親の話よね?』
「そうです。親だからこそ、人間性が破綻しているのでオススメできないんです」
それはまごうことなき本音であり、当事者がこの場にいたら拳骨ひとつではすまなかったことだろう。もしくは最近の様子から声を張り上げて泣くかのどちらかである。
どちらにせよ、おすすめはしない。おそらく彩花も望んでいないことだろう。それでも今結婚生活が送れているのはひとえに他の親のおかげでしかないのだから。




