37 誠、オーストラリアへ行く
経由地を挟んで二十時間以上のフライトは存外快適なものだった。流石は世界的有名人、ファーストクラスでゆったりと過ごす、この経験だけでお釣りが来るほどである。
その間、無言という訳にはいかず、誠とジョーンは色々と話をしていた。家族のこと、子供の頃のこと。辛い思い出にはあまり触れないでおいたため主に誠が話を膨らませることとなったが、それでもある程度のジョーンの人となりを知ることができた。
『僕はどうすればよかったと思う?』
「そうですね。僕の持論ですけど、どうすればよかったかなんてあまり意味がないと思います。その時何ができるか、その選択肢を増やすために日々色々と想定しておく。後悔先に立たず、やるべきことは今やることのほうが大事だと思います」
『零れたミルクは戻らない、か。確かにその通りだね』
空港で買った翻訳機を挟んで会話が弾む。
誠は誤解していたことがある。ダンスという世界で名を残すには幼少期からの習いが必要と考えていた。そして、そんな若い頃からダンスをする子は活発でエネルギッシュ、雑にいえば陽キャという性格なのだろうと。
しかしジョーンは違う。ダンスを始めたのは十歳からとそれなりに早いものの、性格は真面目で控えめ。父親が議員であるからなのか、所作は洗練されていて礼儀正しい。"育ちがいい"という言葉を体現したような人物だった。
真面目同士気があった。聞くところによると、彩花を誘ったのも慣習に従ったまでのことで、ジョーンが無理やりどうこうするつもりはなかったとのこと。だから拒否された時にはどうしていいか分からず、言葉尻が強くなってしまったと後悔していたらしい。
『僕はあの時負けるつもりだったんだ。なのに最初の五枚でフラッシュが完成するなんて普通考えるかい? 神様は相当試練が好きなようだ』
「あー、わかります。どうでもいい時に限っていい方に裏目に出てしまうんですよね」
傍から見ればあくびが出るほどつまらない会話を重ねていく。そうして飛行機は夜を駆け、朝日の中目的地へと着いたのだった。
オーストラリア、シドニー。
オペラハウス、ハーバーブリッジ、シドニータワーと、観光地は数多くあれど、目的地は市内のマンション、目が眩むほどの高さにある一室だった。
そのマンションをふたりは見上げながら、共に立ち尽くしていた。いや、それは正しくなく、一歩も動かないジョーンを不審な目で誠が見ていたのだ。
「……行かないんですか?」
『……ひとつ行っていいかい?』
躊躇いがちに彷徨う言葉は不安の色が濃い。ここまで来て尻込みされると誠も手のつけようがなかった。
ただ実際は、少し違っていた。
『このマンション、アポなしで行っても入れてくれると思うかい?』
笑えない冗談だ。誠はにっこりと口の端を持ち上げると、直後冷え切った真顔で肩を落としていた。
「冗談って言ってください」
『ごめん、冗談じゃないんだ』
「あなたの生家でしょ!?」
『あの頃とは時代が違うし、もともと一軒家だったんだ。仕方ないだろ』
マンションの前で騒ぐふたり、明らかに不審者である。
どう見てもセキュリティがしっかりしているマンションである。入り口に管理人がいるようなタイプ。だからアポなしで行っても通される確率は低いだろうという見当は容易だった。
それでも、行かねば話が進まない。
「血縁なんですよね、それを当てにして突撃するしかないんじゃないですか?」
『駄目だったら?』
「やる前から駄目だった時のことを考えるのやめましょう。少しでも希望を持たないと立ち止まって歩けなくなりますから」
三歳児が諭すという稀有な場面である。他に有効な手立てもない以上、ジョーンは賛成するほかなかった。
結論から言えば、作戦は失敗だった。
ごく当たり前のように管理人に断られ、身分を明かしても通されることはなかった。セキュリティがしっかりしていると確認できただけ、収穫とするしかなかった。
当てもなくなり、さてどうするか、という状況になってしまった。予定では今頃旧知を温めていたとは言わないまでも、少しは話が出来ていたはずなのに、何事も上手くいくことのほうが少ないと教訓になった。
「どうします?」
近くの公園のベンチに座るふたり、無言で空と海を見ていた誠が話を切り出していた。
一応言伝は残したので、あとは管理人が正しく伝えてくれることを期待するしかない。しかしそれもいつになることやら、まだ学校に通っていない誠は時間があるが、ジョーンはそうはいっていられない。次の予定が決まっているためタイムリミットは確実に迫ってきていた。
『とりあえずホテルに行こうか。君もフライトで疲れただろう』
その提案に誠は首を縦に振って肯定する。
時差ぼけはアメリカ行きでも感じていたが、オーストラリアでも同様であった。体験したせいか、まだ軽い症状で収まっているものの、身体に重くのしかかる倦怠感は引っ付いて離れない。
簡単なサンドイッチをほおばり、ホテルで休憩すること半日。幾分か軽くなった身体に反して寝すぎた頭が重くのしかかる夜半のことである。
『はい、はい……わかりました』
「どうかしましたか?」
そろそろ日付も変わる頃、先に起きていたジョーンが風呂上がりに電話をしている姿があった。バスローブ姿に髪を湿らせ、うなじを露出した姿はファンでなくとも心くすぐられる一枚だ。
『起こしてしまったかな?』
通話終わりを見計らって声をかけた誠に、ジョーンは優しく微笑みかける。優しく、というよりは緊張か不安が隠れ見えて、慎重になっているようにも見えていた。
ベッドの上、上半身だけ起こした誠は「大丈夫です」と頷き、
「家族からですか?」
『……よくわかったね』
「いえ、結構わかりやすかったですよ」
そこにポーカーをしていた時の不敵さはなく、どこか抜けている印象の青年がいた。
ジョーンは気恥ずかしそうに頭をかいて、
『明日、父さんと会うことになった』
「一歩前進ですね」
『……たったの一歩さ。君は遅いと怒るかな?』
ひどく歪んだ質問に、誠は鼻で笑い、
「もうとっくに遅いんです。ちょっとくらい足踏みしても誤差ですよ」
軽くあしらっていた。




