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36 誠、帰れない

 その夜のこと、誠は彩花にベッドへ押し倒されていた。

 有無を言わさずの行動である。さすがに身の危険は感じないが、理由は思い当たるようで思い当たらない。

 覆い被さる彩花は両手をベッドに突き立てて誠を視線で射抜いている。呼吸することすら場違いと思わせる雰囲気に、思わず息を飲む。

「どうしてあんなことをした?」

 問い詰められる。照明の影になっている表情は細部を隠していた。

 なぜと問われると、困るのは誠だった。大層な名目があったわけではなく、だが興味本位だけではない。嫌がる素振りを見せる彩花に助け舟を出したかったことも真であり、最初誠をいないものとして見たジョーンの生き方が個人的に癪に障ったということもある。感情に身を任せたというのが正しいが、ぱっと思いつく中で一番しっくりきたのは、

「彩花さんが――」

「お母さん」

「……お母さんが変な目で見られるのが嫌だったから。家族だしね」

 呼び名にこだわるなぁ、と呆れつつ、誠は答える。

 その言葉の真意は、せめて穏便に話を進めてという切実な願いだった。誠の感性からすればパーティーのど真ん中でお誘いすること自体が恥じらいのない行為なのだが、もうそこに関しては諦めていた。しかし揉めて騒ぎを起こすのは違うでしょと、むしろ彩花を諌める目的のほうの比重が大きかった。

「そうか……そんなに私のことが好きなのか」

 彩花の一言で、絶対に意図が正しく伝わっていないと確信する。

 もはや悪意ある曲解なのだ、嫌いではないが性格や行動を好ましいと思ったことなど一度もなく、むしろいい迷惑だとすら考えていた。もし同じ年代に生きていたとしても、生涯の伴侶には絶対に、何かあっても選ばないと断言できた。

 その、ふざけるなと言う口は、彩花の口をもって塞がれていた。

 柔らかく薄い唇に、欲情などなく嫌悪だけが支配する。際どくあるが親愛ゆえの行動だろう、と誠が心を整理していると、

「お前が同年代だったらな」

「気色悪いこと言わないでください」

 こういう時、迂遠なことを言っても伝わらないのは実証済みであるから、誠は配慮なく告げる。

 しかし直球に言っても伝わるとは言っていない。

「北の方の風習は知っているか」

「知らないけど」

「そうか。なら大人になったら楽しみにしておけ」

 そう言い残すと、彩花は誠の横に並んで寝ていた。

 何故だろう、寝る前に脅されてしまえば快眠などできるはずもなく、それよりもよく話題に出る『北の風習』が気になるが、調べたら取り返しのつかないダメージを負いそうで、悶々としたまま誠は天井の模様を見つめる夜を過ごしていた。




 翌日にはもう帰国の準備をせねばならず、誠たちは荷物をまとめていた。

 といっても作業はさほど多くない。着替えなどは専属の衣装係がいるため、本当に身の回りのものを片付けるしかすることがなかった。

 その後、簡単に観光を済ませて空港へと向かう。チェックインして数時間もすればもう空の上、誠にとってあまり身にならなかった海外旅行とも別れを告げる時間だった。

 そう簡単に事件など起こるはずもなく、出立までもう間もなくと言う時だった。

『やあ』

 暇そうにベンチへ腰掛けていた誠の隣にひとりの男性が腰掛けたかと思えば声をかけてくる。どこかで聞いた声に振り返れば、野暮ったいハンチング帽に大きなサングラスをした美丈夫がいた。

『……何してるんですか?』

 見間違えることなどない、ジョーンである。一瞬報復にでも来たのかと身体を固くするが、仮にも有名人が子どもに公衆の面前で手を出すはずがなかった。

 にしても意図が読めない。わざわざ誠の隣に座った理由はなんなのか。しかも彩花がお手洗いに行っている、ひとりの時を狙ったかのようなタイミングでだ。

 その答えはすぐに出て、誠をさらに混乱させた。

『君に責任を取ってもらいたくてね』

 責任と、彼は言う。軽々しく使ってはいけない言葉である。

 言う側に覚悟がいるなら、言われる側にも覚悟が必要だ。しかし誠はなんのだか分からず首を傾げていた。

『えっと……何かしましたか?』

『その前に話をしよう』

 ジョーンは指を一本立てて誠を静止させる。いちいち絵になるところは鼻につくと言われても仕方がない。

『君と話してから色々考えたんだ。僕の選択が間違っていたのか、それとも仕方ないことだったのか』

『はぁ……』

『それでも親というものはいつまでも生きているわけじゃない。軽々しく縁を切ることが正しいのか、自分の子どもに聞かれた時になんて答えればいいのか。正直に言えば今でも両親に逢うことを怖いと思ってもいる。大人になっても一度感じた恐怖は、簡単には消えないものなんだ』

 長い独白に誠は眉をひそめていた。ジョーンはゆっくり話しているのだが、それでも聞き取りに苦労していたせいで話の中身にまで気が回らないせいだった。

『……要するに、どういうことですか?』

『君が急かしたのだから、君も同行する義務がある。そう思わないかい?』

 ジョーンは穏やかに、笑顔で爆弾を投げつけてくる。あまりに気持ちの良い表情は発言に説得力を持たせるが、無理なものは無理、誠はNOと言える日本人だった。

『今から帰国するので無理ですよ』

『こちらを優先してくれればいい』

『もう飛行機乗るんですけど。それに彩花さんが許可しないでしょ』

『ふむ。つまり飛行機をキャンセルできてミセスアヤカの許可があればいいということかな?』

 とても、とても嫌な聞き方をされる。大人になると大抵のことは無茶すればどうとでもなるのだ、魅惑の笑みがうすら寒く感じられて、誠は息を飲んでいた。

 しかし、まだ大丈夫。そんな確信があった。なぜなら彩花が首を縦に振ることなどありえないからである。金で片付く問題ではないのだから簡単に懐柔できるはずもなかった。

 という目論見は、いとも簡単に打ち砕かれることを、誠は直後に知らされていた。

『ミセスアヤカなら快諾してくれたよ』

『は? いやいや、ありえないですって』

『ほら』

 証拠とばかりに提示したのはスマホによるチャットでのやり取り。確かにそこには彩花の認可した文面があった。

 その直前の、『貸しがひとつある』という言葉のほうが誠の目には印象深く残っていた。

『それは卑怯でしょ』

 彩花の性格上、つまらない真似を嫌う。貸しを作ったままなど認められるはずもなく、彼女の性格をよく知るジョーンのほうが一枚上手だった。

 そして彼が取り出したのは航空券が二枚。つまり誠の横に座った時点で既に彼の掌の上で転がされていたということだった。

『さあ、行こうか』

『……僕、あなたのことが好きにはなれそうにないです』

『それは残念だ。僕は気に入っているのだけど』

 キザに言い放たれると、誠は口をへの字に曲げざるを得ない。同性すら魅了する笑みをどうにかして崩してやりたいと、固く誓っていた。

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