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33 彩花、悪夢を見る

「もしかして、好かれてる相手から嫌われるのが嫌なんですか?」

 なんら確証のない、ただの感想を口にする。

 それはすごく頭の悪い発想だった。大事なのは落差、なんとも思っていない相手からの嫌悪感は気にならないが好きな人からの拒絶は耐えられない。当たり前のようであり、人はみなそうならないように好かれる努力を続ける。

 しかし前提を変えてしまおう、絶対に嫌われない人を用意するためにあえて嫌われるような行動を取る。そうしてふるいにかけ、残った人と付き合う。確かにそれなら嫌われることもないだろう、なにせ最初から評価が低いのだ、あとは上がるしかない。

 一見正しく見えるが、そんなことをすればいたずらに敵を増やすだけである。狙ってやっているとすれば相当変わり者だとしか言いようがなかった。

 問題は、彩花がその相当な変わり者であるということである。

「……」

 彼女から返答はなく、不思議そうに眉を寄せている。

 仮説は正しいかわからない。それでも誠は投げやりに話を進める。

「偏屈ですね」

「親に向かって『偏屈』とはなんだ」

「なら親らしいことのひとつでもしてください」

 おしめを変えられたこともミルクを与えられたこともない。せいぜい……いや、誠はなにひとつ思いつかなかった。

 だが、親らしいこととはなんだろうか。親といっても父も母もいる。男は外で稼ぎ、母は家を守るなんて古臭い考えを持ち出すわけではないが、彩花には人並み以上の稼ぎがあった。そう考えると十分親の責務を果たしているようである。

 だからそのままでいい、ということもなく。産んだ母親の責務として子育ての一助くらいしてもバチは当たらないはずなのだ。現に彩花以外の母親は自分の子どもに対して真由へ預けたままにせず、お気持ち程度の手伝いはしていた。

「親らしいこと……」

「はい」

「まだ母乳は出ただろうか」

「やめなさい、はしたない」

 真剣な顔して下着をずらそうとする彩花の手を誠は必死で静止する。どうしてそう短絡的な発想しかできないのか、頭が痛い。

 こんな人格になってしまったきっかけなど誠にはわからないが、唯一わかっていることといえばもう直すには遅く、直されても困るということだ。現在のしおらしさですら全身を虫が這い回るようなむず痒さを感じさせていた。

 迷惑に感じつつも、慣れてしまったのだ。今更心を入れ替えるくらいなら徹頭徹尾やりきれ、そうでないなら最初からやるなという話である。

「彩花さんは――」

「お母さん」

「……お母さんは今のままでいいよ。皆の為にもその方がいい」

「そうか?」

「うん。だから考えすぎないで早く寝よう。明日も仕事なんだからしっかり休まないと」

「わかった」

 歯切れのいい返答は調子がいい証である。

 問題が解決したかは置いておくとして、ひとまず今日は眠れそうである。誠が自分のベッドへ向かおうと身体を動かすと、先程より力強く締め付けられてまるで動けない。

「……寝るんじゃないんですか?」

「一緒に寝るぞ」

 それは誘いではなく、決定事項だった。

 付き合ってもいない男女が同衾とは、などという戯言は通じない。それで大人しくなるならと、誠は諦めるしかなかった。

 ただひとつ、汗のすえた臭いがすることだけは文句を言っても許されるだろうかと考えながら、初めて母親の胸元で眠りに落ちていた。




 これは夢の中の話である。

 今より昔、まだ個人が携帯を持ち始めた頃のことである。

 少女がいた。まんまるい目は輝き、もっちりした頬は朱を帯びている。若き日の彩花には今のような刺々しい印象はない。

 そこはマンションだった。佐藤家よりも少し小さいのは住んでいる人数が少ないからである。

 新築一棟建て、だというのに住人の姿は少ない。平日だから、彩花と兄弟、そして専業主婦であるはるの姿しかなかった。

 今より若く、ケアせずともハリのある肌を見せるはるはひとりだった。家事をこなし、子育てをし、しかし誰も手伝うことなく夜が更ける。

 そういう時代だったのだ。会社勤めは休日返上、残業も当たり前。業務が終わっても取引先との会食があって家に帰るのは日付が変わってから。念の為と用意した夕食はほとんど手をつけられることなく捨てられていた。

 もちろんそのようなことが毎日起きていたわけではない。が、これは夢の話である。ひとり家を守るはるの姿が彩花の記憶に鮮明に刻まれていた。

 景色は移り、今度は街中である。

 その日は酷い雨だった。夜の帳が降りる中、駅の改札前ではると彩花が立っていた。

 はるが傘を二本持ち、彩花はレインコートに身を包んでいる。家族の誰かの帰りを待っていた。

 都合よくやってきたのは誰だろうか、男性とも女性ともとれる身体つきに霧がかった顔。夢特有のわかるはずなのにわからない、認識できない人がはるの前へと向かっていた。

 二、三声を交わして彩花を抱き上げる。酔っているようでアルコールのむせかえる臭いと、紛れる異性の体臭。接待と称しながらその裏で何をしてきたのか、幼心にもわかってしまう。

 だがこの世界では忌避されることではない。だから彩花も取り立てて非難することはなかった。ただ、言えないことによるもどかしさが積もり続けているだけだった。

 また景色が変わり、今度は今彩花の住むマンションだった。ベッドの上には自分の姿と誠がいる。

 怒っていた、理由はわからない。しかしその感情をただぶつけるように突き倒し、細い首に手をかけて――

「っ!?」

 目を開いた直後、彩花は飛び跳ねるようにして起きていた。

 指には生々しい感触が残り、震えている。夢をまだ夢とはっきり認識できず、目が薄暗い部屋の中を彷徨っていた。

 いない。いないのだ。自分のベッドにも、となりのベッドにも、愛息子の姿はなかった。

「誠……」

 嗚咽に似た声が漏れる。あれは夢だったのか、もしくは本当に起きたことなのか。何もわからないまま、彩花はこみ上げるものを熱い吐息とともに吐き出していた。

「――なに?」

「……誠?」

「そうだけど」

 雰囲気読めずに声がしたのは下からだった。ベッドの下、床の上に転がっているのは手足の短い子どもの姿である。

 日付も変わった深夜に、なぜ床の上で寝ているのか。そんなことよりも彩花は安堵と憤慨が入り混じった感情を押さえつけることなどできずにいた。

「何してんのっ!」

「なにが?」

「なんでそんなとこにいんの!」

 怒る。怒鳴る。部屋が上等でなかったなら隣から苦情のひとつでもあったことだろう。

 対して誠はというと、冷ややかな目をしたまま「はぁ……」と大きくため息をついて、

「蹴とばした本人に言われたくない」

「蹴とばした……」

「うん、覚えてないの? 覚えてるわけないか」

 寝相の話なので寝ていた彩花がわかるはずもなく。

 誠はそれ以上何も言わず、彩花のとは別のベッドへと向かっていた。せっかく眠っていたところを蹴り起されたのだ、これ以上同じことをされてはたまらないと思うのも当然だった。

「誠……」

 彩花の伸ばした手が誠の背中を追う。常識的に考えて止める理由がない。引き留めることもできず、彩花は振り切るように背中を向けて深くベッドへと潜っていた。

 ……。

 彩花が眠れないまま、数分。衣擦れの音が部屋に響いたかと思えば、

「一緒に寝てほしいならそう言いなよ」

 背中がじんわりと熱を帯びていた。子どもの体温は高いのだ。

「……ごめん」

「いいよ。おやすみ」

 言葉はそれだけである。やがて誠の緩やかな寝息を子守歌にして、彩花の視界は黒く塗りつぶされていった。

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