31 誠、祈る
誠とはる、ふたりが真っ当な意味で仲良くしている姿を、扉の向こうから見ている人物がいた。
彩花である。
彼女は、とても言葉では表せない表情をしていた。喜んでいるようにも、怒っているようにもとれる。または何も考えていない無表情か。その奥に何を考えているのかは計り知れず、ただドアノブを握る手は白くなっていた。
一言も発さず、ガラスに顔を押し付ける彩花の後ろにも人がいた。弟であり夫でもある亮は、ドアの前で固まったまま石膏像の如く微動だにしない彼女へ目を向けていた。
「何してるの?」
「何が?」
問われ、問い返される。そのくせ目線を動かすことすらなかった。
「入らないの?」
「入る……あぁ、そうか。入ってなかったのか」
変なことを口走るのはいつものことであるが、彩花は本当に気付いていなかったかのように唇を円くし、しかしそれでもまだそこから動くことはなかった。
しばらくして、薄ら寒い廊下でたたずむことにしびれを切らした亮がドアノブを掴む手に指を絡めていた。予想よりもずっと冷たい手に触れ、驚きのあまり一瞬戻してから彩花の手ごと押し込んだ。
「――あら、もう用は済んだの?」
誠と対面していたはるが、物音に振り向いて尋ねる。さきほどまでと同じ声色、同じ抑揚。驚いた様子もない。
「えぇ、穴の中には飛び出す蛇のおもちゃしかなかったです。食品云々は嘘だったようで」
「そう、そうよね。そのくらいの常識はあると信じていたわ」
ほっと息を吐き、はるは緊張のとれた笑みを浮かべた。信じていた、という割には不安の比重が多かったように見えるのは気のせいではなさそうである。
和やかな会話を他所に彩花がずんずんと邁進する。一言も発さず誠の立つ椅子に近寄ると、そのまま腕を掴んでいた。
服に皺が寄る。痛みすら感じるほどの力強さに異を唱える間もなく誠は持ち上げられ、
「――帰る」
明らかに不機嫌さを顕にした彩花が一言置いて、玄関へと向かおうとしていた。
待ってと言って待つほど素直なら誠も口を開いただろう、既に彼はぬいぐるみのごとく全て流れに身を任せていた。ささやかな抵抗は祖母のはるに別れの手を振るくらいである。
彩花の突飛な行動はいつもの事である。だから誠は抗議することの無意味さを知っていた。止める人もおらず、逃げるように早足な母親の背中を追っていた。
「……どうしたのかしら?」
「さぁ……?」
一番付き合いの長い亮がわからないなら誰にもわからない。残されたふたりはただ首を傾げるばかりだった。
人生何があるかわからない。この世界に生まれ落ちて誠が知った真理のひとつである。
そもそも真っ当に生きていれば犯罪に巻き込まれることは低い。社会的地位のある親のもとに生まれておらず、治安の悪い地域でもない。人の目を惹く要素などなかった。
しかし人間どこで恨みを買っているかなどわかるはずもない。そのことを誠は重々承知していた。
していたはずだった。
あくる日のことである。気持ちのいい晴天の下、誠は海に来ていた。海と言っても白い砂浜ではなく、眼下に見えるのは黒い岩肌、そのさらに下では轟々と白波が立っている。
崖と言うにふさわしい。目線をあげれば突き抜けるほど遠くまで海が広がり淡い境界線を挟んで空へと変わる。向こう側はアメリカか中国か、それすら不明だった。
なぜか、それは起きた時には現地に着いていたからである。ちなみに下手人は誠の前、あと一歩で崖から落ちるというところに立っていた。
「危ないよー」
誠が声をかけても彼女は振り向かず。一言かけたのだからそれ以上は自己責任と、諦める。
近くの突き出した岩に腰掛けて様子を見る。彩花は何を考えているか、ただ海と空へ視線を向けたまま微動だにしない。かれこれ十分、そんな調子だった。
変なのはいつもの事だが、誠は違和感を覚えていた。基本的に動の人である彼女が静なのは珍しい。おかしいのは先日から、思い詰めたように静かになった彼女を家族一同噴火前の火山を見守るような目で見ていた。
「――誠、どうしてお母さんと呼ばない?」
それは不思議な問いだった。
母を母と呼ばない、前世では不思議な感覚だが、今の誠には明確な理由があった。
「いや、誰も呼んでないじゃん」
そう、この世界には母を母と呼ぶ習慣がないのだ。なぜならと言う必要も無いくらい明白で、母が誰を指しているか分からないからである。
例外があるとすればシングルの家庭くらいなもので、彩花の問いはなぜ今更としか言いようがなかった。
それよりも、そんな質問のためにこんな場所まで連れてきたのかとため息が漏れる。時間は有限でありまたまだ学習の足らなさを自覚している誠にとって無駄は極力排除したいのだ。
「母親とはなんだ?」
「子どもに聞くことじゃないかな」
禅問答のような会話には素っ気なく。あとどれだけ付き合えば飽きて帰ろうというだろうか、それしか誠は興味がなかった。
答えに満足したのかそうではないのかは別として、彩花は無表情のまま誠へと近づいていた。そしてその首根っこを掴むと、
「あのババアのほうが好きか?」
意味の分からない質問を再度。これには誠も眉をひそめるばかりである。
好きか嫌いか。単純な問いだけに返答は難しい。彩花はうっとおしく面倒くさいが嫌いではないし、はると話したのは一度だけ、好きも嫌いもまだ決められない。
だから、答えはひとつ。
「どっちもどっちかな」
「駄目だ」
「じゃあ彩花さん」
生みの親という恩の分だけ彩花に軍配が上がる。一見すると脅されているようにも見える中、誠の冷ややかな目が印象的だった。
彩花は相変わらずの無表情、もはや何も考えていないのではと邪推するほど、行動に筋が通っていない。誠が目を見れば背けられて、会話すらまともにできていなかった。
「ねぇ、何に悩んでるの?」
「悩んでる? なんで私が悩む必要があるんだ?」
「そういうのいいから。まずは悩んでることを自覚してよ。そうじゃないとなんにも話進まないから」
突き放すように言うと、急に支えがなくなって落下する。不安定な岩場にも無事着地できたのは日頃の鍛錬の成果だった。
彩花はそんな息子へ目もくれず、じっくりと見下ろしたあと、目を閉じてから大きく息を吐いていた。
「仮に……仮に悩んでいたとして、私はどうすればいい?」
「何に悩んでいるか知らないのに聞かないでよ。エスパーじゃないんだし」
「そう言われても……」
「じゃあ、何か嫌なことあったんじゃないの? はるさんのうちに行ってからでしょ」
「……」
答えはない。
悩んでいるようだ、その表情からはなにひとつ汲み取ることはできないが、悩んでいると信じたい。
「……」
悩んでいる。
「……」
悩んでいる。
「……」
……悩んでいる。
「……」
「あーもう、いいから。別の方向から考えよ、ね?」
根負けしたのは誠だった。これが作戦だとしたら彩花は相当な策士に違いない。
ふう、と一息。彩花の行動は一見不可解ながら、その実やっぱり不可解である。それでも言動からいくつか傾向は読み取れていた。
「どうなると一番嫌?」
「わからん」
「……なんで海なの?」
「わからん」
「……はるさんと張り合ったのはなんで?」
「わからん」
誠の手に力が入る。わからなくてもいい、いやよくはないが、せめてもう少し申し訳なさそうにするなりあるだろうと思わずにはいられなかった。
ただ彩花に殊勝な態度が似合わないのもまた事実である。ここは大人になって聞き方が悪かったと誠から下手に出る他なかった。
「じゃあさ、もうしたいようにすればいいじゃん。僕の許可なんていつも取ってないんだから、今一番やりたいことから考えようよ」
「やりたいこと――」
一言呟いて彩花は目を伏せる。そしてみるみる口角が上がっていく様子を誠は見つけていた。
猛獣を檻から出すようなものである。わかっていても、親の苦しむ姿が見たくなかった、なんだかんだ言ってもその愛情は変わらずあって、せめて被害は自分だけに留まってくれないかと天上に祈る誠だった。




