59・腹パンとは、オートポンプのスイッチ
「っおぉ…………」
低い呻きがすぐに止まる。
腹筋をやられた痛みと衝撃で、声が出せなくなったんだ。
仮面の聖女さまはその辛さで立っていられなくなったのか、弱々しくよろめく。
「できるかどうか疑わしかったが、何でもやってみるもんだな。で、どうだった? 好きなように試してみろとか抜かしてたよな? 実際に試してみたんだが、どんなもんだった? 俺の腹パンのお味は」
一方、俺はしっかりと両足で立ち、ここぞとばかりにまくし立てる。
仕返しだ。
俺はそこまで根に持つタイプじゃないが、それも相手による。こういう上から目線の悪質な奴にはそれ相応にやり返してやるのだ。
「…………ぅえ」
減らず口を叩くかと思ったら変な声を返してきた。
「ぅえ……? 難しい発音だねそれ。あんたの国の方言とか、スラングってやつ──」
こちらの声など耳に入っていないのか、聖女さまは、俺にもたれようとするかのように、またよろめく。
形のいい、赤い唇を尖らせ、
ほっぺたを膨らませ、
そして、
「うっ……………………うぇええっ!!」
吐いた。
吐き気とか、気分悪いとか、そんなもんじゃない。
ガチの嘔吐。
さっきの発音しづらい言葉は海外のマイナーな単語じゃなくて、本気のゲロの前触れ、津波が押し寄せる前の不気味な小波だったのだ。
「のわあっ!?」
内臓をやられたせいで胃の中身が逆流したのか、酸っぱい臭いの胃液と一緒に消化しかけのものを吐き出した。
「嘘だろっ、こんな、服がドロドロに……マジ勘弁してくれよ……」
嘆いてももう後の祭りなんだけど、それでも心は納得できないので嘆きは止まらない。
人間は腹部に強烈なものを食らうとリバースする。
人によっては酒や乗り物、あるいは食あたりでもそうなる。
誰でも知ってる。
そういうことを忘れ、予想すらできず、まともにゲロを浴びた俺が後先考えてないドアホだったわけですね。失念してました。
それでも「あっこいつ吐きそうだなヤバい」と察知して避けることもできたのに、とっさの判断も遅いドアホな俺は、なんと、その時もまだ聖女さまの左腕を掴んでいたままだった。
ある意味、お互いの腕が繋がれているようなものだ。避けようがない。
天外優人痛恨のミス。
離さなきゃまずいと、そう思った時には──もう、手遅れだった。
「うぇっ、おぶっ、おえっ……」
汚いポンプと化した聖女は、まだ残りを小刻みに吐いている。
それも俺は浴びていた。
勢いが弱いため上半身にまでかからないが、その代わり下半身──ズボンや靴が犠牲になっている。
避ける気もしない。
今さらこの状況で下だけ守ろうと焼け石に水だ。
「なんで毎回俺の服駄目になるん……?」
聖女は物理的なダメージを食らい、俺はほんまもんのホーリーシットをぶっかけられて精神的なダメージを受けている。
聖女と俺。
どっちも汚物まみれの悲惨な有り様だ。
……そうだ。
かなり昔に、こんなことがあったのを思い出した。
バスの中で、後ろのほうに座っていた女子が盛大にやらかしたときだ。
あの時は辛かった。音と臭いで俺も後追いしそうになったもん。どうにか耐えたけど。
でも今回は間近でやられて、しかもかけられた。
あの時より辛い。戦意もやる気も食欲も失せていく。くちゃい。もうおうちかえりたい。
これが血液ならいつものように綺麗さっぱり吸い上げてもいいのに、よりによってゲロ。
絶対したくない。
そこまで堕ちたくはないからやらない。
「うっわ……」
「酷いものだ。こうなっては聖女も路地裏で酔い潰れる中年親父と変わらんな。いや、こちらのほうが、より醜さが際立っているか。元の見映えがいいだけに」
邪剣使いも冷気使いも、思わず手を止めてこっち見てる。
見るのはいいけど、溜まってる流しの三角コーナー見るような目するのはやめてくれないかな。悲しくなる。
「言えてるね。不細工より美人のほうが、堕っこちたときの落差や衝撃がでかい……ってことか」
「その通り。お前もなかなか美醜の法則をわかっているようだな。剣を振るうしか能がないわけでもないらしい」
なんか意気投合してないかあいつら。
「ま、あの小僧はとばっちりもいいとこだがよ」
「きっかけを作ったのはあの少年だ。因果応報。先の展開を予測することを怠ったがゆえにああなった。なるべくしてなった惨状といえるな」
「うっさいな。余計なこと言ってないでそっちはそっちで殺しあってろよ。ほっといてくれ」
「おやおや、怒られてしまった」
「ハハッ、そのみっともないザマで怒られてもなぁ」
カチン
「……こっち片付いたら次はあんたの番だと思えよ。まあ、この様子ならもう片付いたも同然だけどさ」
聖女のほうに再び目をやる。
「…………ふっ、ふぅ……」
両膝ついてへたりこみ。
ようやく整っていく呼吸。
嫌なものを噴き出していた聖なるポンプが、やっと止まったのだ。水源ならぬゲロ源が枯れてくれた模様である。
「やっと空っぽになったか」
聖女から目を離し、改めて衣服を見る。
何度見ても、シャツもズボンも靴も、聖女の中身でまみれている。
これ、帰りの車中とかどうしたらいいだろう。臭いとか酷いことになって間狩たちから苦情がきそうだ。お前だけ外走れとか言われるかも。
「……それよりも、今のことを優先するか。今やんないといけないことをな」
結局聖女の腕は手放した。
もう負けはない。
また同じことをしてきても、同じように無効にしたらいい。流石にまたゲロはないと思うが。
「負けを認めてくれないかな。でないと、次はどてっ腹に穴が開くことになるよ」
とは言ったが。
そこまでやる気はないけどね。
やるとしても今やったのと同じくらいの腹パンをかますくらいだ。殺しはしない。
そっちのムカつく汚れ剣士と違って、こっちのゲロ聖女を殺したら後々の遺恨になる。だから生かして返したいんだけど、それはこの女の意地次第──
「……いたい」
「ん?」
「痛かった、とっても痛かった」
「まあ、痛かっただろうな。殴られたわけだし。でも今訊いてるのはそんな感想じゃなくて……」
「痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かった痛かったぁああああ!!」
「うわ!」
両膝ついて座り込んだまま天を見上げ、聖女コルテリアが絶叫する。
途中から日本語じゃなくてなんかドゥルードゥルーとわめいてるけど母国語なのかな。ヨーロッパ語はよくわかんないや。
「もうやだ、もうかえる! こんなのやだ、リアもうこんな痛いのやだぁあああああ!!」
あ、また日本語に戻った。少しは落ち着いたのかな。
でも泣いてる。
泣いてるよ。いい大人の女性が。
幼稚園児並みのみっともないマジ泣きしてるよ。
──きっと、この聖女さまは、今まであの法術とやらがあるせいで、戦いの場で痛い目にあったことが一度もなかったのだろう。
誰にも破られることなく、負けることもなく、この歳まで生きてきた。
そこに現れた俺。
俺がかました腹パン。
人生で初めての強い痛み。
これまで苦痛と縁のない生き方をしていた聖女さまが、いきなりそんな目に合ってしまえばどうなるか。
その答えがこれってことか。
「……こりゃ、勝負ありかな」
ひぐひぐ言ってしゃっくりまでしてるし、この様子なら続行なんか無理だろ。
俺の勝ちってことでいいよな?
なんか、幼い女の子をいじめてるようで複雑な気分だけどさ、でも勝ちは勝ちだ。そうなんだ。
泣きじゃくる聖女。
ゲロまみれの魔物。
こうして、聖女と魔物の戦いは、魔物に軍配が上がったのだった……ってわけさ。




