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悲願花  作者: 非常食
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それから数ヶ月が過ぎた。屋敷は以前より静かで、しかしどこか満ち足りた空気に包まれている。廊下を行き交う者の足取りは軽く、声の調子も柔らかい。すべては、あの子が生まれてから変わった。ハイリはその変化の中にいながら、少しだけ外側に立っているような感覚を抱いていた。


呼ばれる回数は減った。以前は夫人のそばにいる時間が多かったのに、今は「今はお休み中でございます」「少しお待ちください」と言われることが増えた。拒まれているわけではない。ただ、順番が後ろに回っただけ。そう理解している。それでも、扉の前で立ち止まる時間が長くなった。


食事の席も変わった。以前は夫人の近くに座っていたが、今は少し離れた位置になっている。「ハイリも一緒に」と言われていた頃と違い、「ハイリはあとで」と穏やかに告げられることもあった。誰も責めるような声ではない。むしろ優しい。だからこそ、理由を尋ねることはしなかった。


その代わりに増えたものがある。あの子のそばにいる時間だ。


「ハイリ様、少し見ていていただけますか」


ある日、侍女にそう頼まれた。夫人は疲れているらしく、部屋の奥で休んでいるという。ハイリはすぐに頷いた。「はい」胸の奥が、ふわりと温かくなる。任されたのだと思った。


揺り籠の中で、あの子は小さく手足を動かしている。生まれたときよりも少しだけ大きくなり、表情も増えた。泣き声も、前よりはっきりしている。ハイリはそっと近づき、覗き込む。


「こんにちは」


返事はない。けれど、わずかに目を開ける気配がある。ハイリは指を差し出す。あの時と同じように。小さな手が触れ、ぎゅっと握る。弱い力。それでも確かに、掴まれている。


温かい。


それだけで十分だった。


「なかよく、しましょうね」


小さく呟く。言葉の意味が伝わっているかは分からない。それでも、そう言いたかった。


背後で、侍女たちの声が重なる。「助かるわね」「ええ、あの子がいれば安心だわ」その言葉は軽く、日常の一部のように落ちる。ハイリは振り向かない。ただ、指を握る小さな手に意識を向ける。


しばらくして、あの子がぐずり始める。小さな泣き声。どうしていいか分からず、一瞬だけ迷う。けれどすぐに思い出す。侍女がしていたように、そっと揺らす。ゆっくり、一定のリズムで。声は出さない。ただ、静かに揺らす。


泣き声が少しずつ弱くなる。


やがて、また眠りに落ちる。


「……よかった」


胸を撫で下ろす。うまくできたと思った。褒められるかもしれない、という期待が一瞬よぎる。けれどその期待は、すぐに形を持たないまま消える。誰に見せるわけでもない。ただ、自分の中で小さく灯る。


夫人が目を覚まし、こちらを見る。「ありがとう、ハイリ」その一言に、すべてが報われる気がした。


「この子、あなたがいると落ち着くみたいね」


やわらかな声。ハイリは頷く。「はい」それ以上の言葉は出てこない。ただ、嬉しかった。


「いい子ね」


夫人の視線は、ハイリではなく揺り籠へ向けられている。そのことに気づきながら、ハイリは何も言わない。


指先にはまだ、さきほどの温もりが残っている。


それが自分に向けられたものではないと、どこかで分かっている。それでも、その温もりの中に自分の居場所があるように思えた。


ハイリは静かに揺り籠を見つめる。


この子のためにできることがある。


それだけで、十分だった。


そして、誰にも聞こえないほどの声で、もう一度だけ呟く。


「おともだちですもの」

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