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悲願花  作者: 非常食
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3

その夜のざわめきは、朝になっても消えていなかった。廊下には普段より多くの足音が響き、使用人たちは声を潜めながらも落ち着きなく動いている。ハイリはいつもの時間に起き、いつものように身支度を整えたが、鏡の中の自分が少しだけ遠く見えた。理由は分からない。ただ、屋敷全体が自分とは別の方向へ動いている感覚があった。


「ハイリ様、本日はお部屋でお過ごしください」執事の言葉は柔らかいが、はっきりと線を引いていた。「……おくさまは?」と尋ねると、「大切な時でございますので」とだけ返される。拒まれているわけではない。ただ“入ってはいけない場所”があるのだと理解する。


部屋に戻っても落ち着かず、窓の外の庭園を眺める。昨日と同じ景色のはずなのに、色が薄い。時間だけが長く伸びていくようで、何度も時計を見た。やがて、遠くで一度だけ大きな声が上がる。悲鳴のようにも、歓声のようにも聞こえた。ハイリは立ち上がる。足が勝手に扉へ向かう。開けると、廊下を走る侍女と目が合った。「……あかちゃん、ですか」問いに、侍女は息を整えながら頷く。「ご無事でございますよ。元気な……」言葉の続きを聞く前に、胸の奥がふっと軽くなる。


しばらくして、執事が迎えに来た。「奥様がお呼びでございます」その声は、いつもより少しだけ明るい。ハイリは急いで裾を整え、教えられた通りの歩幅で廊下を進む。近づくにつれて、空気の温度が変わる。扉の前で一度深く息を吸い、ノックの後に中へ入る。


部屋の中は静かだった。さきほどまでの慌ただしさが嘘のように、柔らかな光が差し込んでいる。夫人は寝台に横たわり、顔色は青白いが、穏やかに微笑んでいた。その隣に、小さな揺り籠がある。視線が自然とそこへ吸い寄せられる。


「ハイリ、いらっしゃい」夫人の声は弱いが優しい。「……おめでとうございます」言葉にすると、胸の奥で何かがほどける。夫人は頷き、「会ってあげて」と小さく手を動かした。


ハイリはゆっくりと近づく。揺り籠の中を覗き込む。そこにいるのは、今まで見たことのないほど小さな存在だった。閉じたまぶた、わずかに動く指、規則的な呼吸。生きていることが、こんなにも静かな形であることに、少し驚く。


「……ちいさい」思わずこぼれる。返事はない。ただ、確かにそこにいる。


「あなたの、おともだちよ」夫人が言う。その言葉に、ハイリの中で何かがぴたりとはまる。「はい」自然と頷く。「わたくし、なかよくします」


そのとき、赤子の手がわずかに動いた。空を掴むように開かれ、すぐに閉じる。ハイリはそっと指を差し出す。触れてよいのか一瞬迷い、しかし夫人の視線に背中を押されるように、ほんの少しだけ触れる。


温かい。


昨日と同じ温もりなのに、どこか違う。自分に向けられたものではない温もり。けれど確かに、そこにある。


「いい子ね」夫人の声が落ちる。「この子を、よろしくね」


よろしく。その言葉の意味を、ハイリは正しく理解できなかった。ただ、うれしいと思った。自分に任せられるものがあることが、うれしかった。


「はい」


はっきりと答える。


背後で、誰かが小さく息をつく気配がした。気づかないふりをする。今は、この温もりだけで十分だった。


揺り籠の中の赤子は、何も知らずに眠っている。屋敷の期待も、役割も、まだ何一つ知らない。


ハイリはその寝顔を見つめながら、静かに思う。


おともだちになれた、と。


そして同時に、言葉にしないまま理解する。


自分はこの子の隣にいるのではなく、この子のためにここにいるのだと。


その違いを、まだ名前で呼ぶことはできない。

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