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悲願花  作者: 非常食
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その日からハイリの中で時間の流れがわずかに変わった。庭園の花も陽の光も何一つ変わらないのに、すべてが少しだけ遠く感じられる。夫人のもとへ通う回数は増え、訪ねれば必ず隣に座らされた。夫人は穏やかに微笑みながら腹に手を当て、「ここにね、小さな命がいるのよ」と繰り返す。ハイリはそのたびに頷き、理解しているふりをする。だが実際にはよく分からない。ただ“ここにいる”ということだけが確かで、だからこそそっと手を重ねる。温もりに触れるたび、胸の奥が静かに満たされた。


ある日の庭園で、風に紛れて声が届く。「あの子が」「そうよ、売られてきた子」「まあ……あんなに堂々として」「お気の毒に。けれど、もうすぐ——」そこで言葉は途切れ、小さな笑いが続く。ハイリは振り向かない。振り向いてはいけないと知っている。白い花弁を指でなぞると、かすかに震えた。“もうすぐ”の先は聞かなくても分かる。夫人の腹の中の子が生まれれば、自分の役目は終わるのだと、曖昧ながら理解してしまう。


夕刻、執事が声をかける。「ハイリ様、冷えてまいります」「……はい」立ち上がり、裾を払う仕草が以前より丁寧になっていることに気づく。それが誰のためかは分からない。廊下の窓に映る自分の姿を見つめる。整えられた髪、与えられた服、作られた令嬢のかたち。それは自分のものではなく、誰かのために用意された“役割”のように思えた。


その夜、なかなか眠れず天井を見つめていると、遠くで足音が慌ただしく響く。屋敷の空気が変わる。いつもと違う緊張が廊下を満たしていく。扉の向こうで人の声が重なり、低く抑えた指示が飛ぶ。ハイリは起き上がり、裸足のまま扉に近づいた。わずかに開けると、使用人たちが急ぎ足で行き交っている。


「……おくさま?」


誰にも聞こえないほどの声で呟く。胸の奥がざわつく。理由は分からない。ただ、何かが決定的に変わる気がした。


やがて一人の侍女が足を止め、ハイリに気づく。「ハイリ様、お部屋に」その声音は優しいが、どこか硬い。ハイリは頷きながらも動けなかった。「……あの、」言葉を探す。「赤ちゃん、ですか」侍女は一瞬だけ視線を揺らし、すぐに整えた。「ええ、もうすぐでございますよ」


その答えに、胸が高鳴る。嬉しいはずなのに、同時に静かに沈むものがある。理由は分からない。ただ、確かにそこにあった。


扉を閉め、ベッドに戻る。横になりながら、夫人の言葉を思い出す。“ここにね、小さな命がいるのよ” その命がこの屋敷に来たとき、自分はどこにいるのだろうか。


考えようとして、やめる。


代わりに、今日触れた温もりを思い出す。


あれは、自分のものではない。


それでも確かに、そこにあった。


ハイリは目を閉じる。


そして小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。


「……おともだちに、なれるでしょうか」


その問いに答える者は、まだいない。

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