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江藤淳

挿絵(By みてみん)


 「ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム」という言葉をご存じの方も少なくないでしょう。この禍々(まがまが)しい英語をどう訳せばいいでしょうか。戦争犯罪広報事業とでも訳すのでしょうか。翻訳しにくいこの英語は「WGIP」と略語表記されたりします。占領軍が実施したこのおぞましいプログラムこそが、戦後日本の思想や言論に今なお強烈な負の影響を及ぼしつづけています。

 この「ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム」という対日洗脳工作の存在を発見し、日本国民に知らせてくれた最初の人物が江藤淳です。


 昭和八年(一九三三)生まれの江藤淳にとって日本の敗戦はそうとうな衝撃だったようです。

「戦前の日本で、自分が国家と無関係だと感じた子供はいない」

 江藤淳は書いています。国家と強くつながっていると感じていた日本の子供たちは、敗戦に直面して多大な喪失感を味わったようです。

 江藤淳は、文芸評論を志し、若くして頭角をあらわします。六十年安保に反対するなどもともとは左翼的傾向の持ち主でした。しかし、アメリカの大学に留学し、帰国した頃から保守主義に転じました。

 江藤淳は、昭和五十四年から翌年にかけて再び渡米し、研究所や図書館や公文書館に通い詰めます。その目的は、占領軍が日本において実施した検閲の証拠資料を探し出すことでした。占領軍によって実施された大規模かつ徹底した検閲については長いあいだ知られることがありませんでした。知っている人々は大勢いたのですが、語る者は皆無でした。なぜなら検閲が効果を発揮していたからです。占領が終わってもなお、占領軍の検閲が日本人にひきつがれ、効果を発揮しつづけていたのです。

 この知られざる事実に江藤淳は日々の評論活動のなかで気づきます。その気づきは、文芸評論家としての直観だったようです。職業として数多くの文芸作品を読みこんできた江藤淳は、数々の作品群に通底する奇妙な感覚をつかむに至ったのです。

「自分たちがその中で呼吸しているはずの言論空間が、奇妙に閉ざされ、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じないわけにはいかなかった」

 この曖昧模糊とした感覚が江藤淳を動かします。

(何かがあるはずだ。占領期に何かがあったに違いない)

 占領軍が検閲を実施していたとすれば、これは歴史上の一大発見です。なにしろアメリカ合衆国憲法も、アメリカ人がつくった日本国憲法も検閲を禁じているからです。憲法違反の検閲が実施されていたとすれば一大スクープです。さらに、この検閲が戦後数十年を経過してなお日本の言論界に対して効力を発揮しているとすれば、言論人たるもの、これを看過できるはずがありません。

 江藤淳はまず国内で情報を収集しました。すると、降伏文書調印から数週間後に同盟通信社と朝日新聞社が占領軍によって業務停止命令を受けていた事実が浮上してきました。これは検閲の状況証拠です。しかし、決定的な証拠とはいえませんでした。なんとかして占領軍による検閲の証拠をつきとめたいと考えた江藤淳は再度の渡米を決意します。

 昭和五十九年(一九八四)、渡米した江藤淳は、アメリカ政府機関の行政文書を渉猟するためワシントンに滞在します。メリーランド大学マッケルディン図書館、国立公文書館およびスートランド国立公文書館分室、合衆国議会図書館、マッカーサー記念館などに足繁く通い、膨大な行政文書のなかからめざす文書を探し出そうとしました。しかし、行政資料の膨大さと検索作業の困難さから探索は思い通りに進まず、手探り状態となりました。

 それでも、行政文書と格闘するなかで江藤淳は手がかりをつかみます。占領軍の実施した検閲は合衆国統合参謀本部の命令に基づいて実施されていた事実がわかりました。さらに、合衆国検閲局という政府機関の存在をつきとめました。

 合衆国検閲局は、戦争中の昭和十八年(一九四三)、はやくも占領地における検閲の実施計画を策定していました。ときの検閲局長官はプライスという人物で、もともとはAP通信社のジャーナリストだったこともわかりました。

 統合参謀本部と検閲局は協議して検閲計画を決定し、イタリアとドイツの降伏後、直ちに検閲を実施しました。日本に関しても昭和十九年十一月の段階で統合参謀本部によって検閲実施命令書が決裁されており、日本が降伏する以前に検閲の準備が万端ととのえられていたことが判明しました。

 ちなみにアメリカ政府は、第二次世界大戦に参戦すると同時に、アメリカ国内において検閲を実施していました。合衆国憲法が禁止している検閲を自由の国アメリカの政府がアメリカ国民に対して実施していたのです。自国民に対してさえ検閲を実施していたのですから、敗戦国に対して容赦のない検閲を実施するのは当然だったといえるでしょう。合衆国検閲局の職員数は昭和十八年の最盛期には一万四千名にふくらんでいました。しかし、アメリカ国民の多くは、この事実を知りません。アメリカ国民さえ知らなかったのですから、日本国民はなおさら知り得なかったのです。

 江藤淳は、苦労ののちに「自分たちを閉じ込め、拘束しているこの虚構の正体」をつきとめます。「ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム」です。アメリカ合衆国憲法が禁じ、アメリカ製日本国憲法も禁じ、ポツダム宣言でさえ禁止していたはずの検閲を占領軍が実施していたのです。それも徹底的に。その証拠が見つかりました。


 終戦直後、日本のマスコミ各社には日本人としての矜持と反骨精神がまだ残っていました。戦争では敗れたが、言論では負けないという気概がありました。そのことを素直に表現した同盟通信社と朝日新聞社は占領軍から業務停止命令を受け、業務を停止させられました。

 日本のマスコミ各社は恐怖しました。占領軍を怒らせると業務停止をくらう。くらってしまえば会社が倒産してしまう。これは死活問題です。占領軍による占領政策は民主化でも解放でもなく、恐怖による強制でした。その最初の標的がマスコミ各社だったのです。

 占領軍は、日本のマスコミ各社を恐怖で完全にしばりつけたうえ、「ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム」を開始します。その時期は昭和二十一年初頭だったようです。その目的は次のとおりです。

「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」

 つまり、マスコミ各社を完全に掌握しておいて、プロパガンダ情報を与え、ひろく流通させ、日本国民を自虐史観で洗脳するのです。もっとわかりやすくいえば、連合軍の加害を隠蔽するのです。すべての責任を日本の指導者たちに押し付けたのです。連合国こそ責任逃れの卑怯者集団だったのです。

 アメリカ軍によって実施されたおぞましいこのプログラムは見事なまでに成功します。戦勝国にとって都合のよい、まるで漫画のような勧善懲悪史観が日本をおおいました。日本のマスコミ各社は全く抵抗できませんでした。「反権力」が聞いて呆れます。マスコミ各社こそが占領軍という権力の走狗になりさがったのです。

 検閲者たる占領軍と被検閲者たる日本マスコミ各社は「この事実をだれにも知らせてはならない」というタブーを共有することになりました。

 このタブーは、連合軍による日本占領が終了したのちもマスコミ各社によって維持されています。時間の経過とともに、このタブーは強固な慣習となり、戦後半世紀以上が経過してもなおタブーは頑強に生き続けています。その結果として「閉ざされた言語空間」が構成され、江藤淳に奇妙な感覚を抱かせるに至ったわけです。

 占領中、日本のマスコミ各社は占領軍に対するあらゆる批判を封じられていました。連合国最高司令官や極東軍事裁判に対する批判、憲法起草に連合軍がかかわった事実、検閲制度への言及、連合国各国に対する批判、連合国一般に対する批判、日本人が連合軍から受けた不当な取り扱いに対する批判等々、なにもかもが封じられていました。

 日本のマスコミの口を封じた占領軍のプレスコード(報道統制)のなかには奇妙な一項目があります。

「占領軍兵士と日本女性との交渉」

 この奇妙な文章の正体はなにかといえば、連合軍将兵のための慰安施設が存在した事実、および連合軍将兵が日本女性を強姦した事件を報道してはならないという命令でした。連合軍の将兵はいったい何のために来日したのでしょう。彼らは日本女性を犯しまくりました。二十万人ものパンパンガールを抱きまくり、それでも飽き足らずに強姦事件を起こしていました。ひどい場合には、小学生の少女が米兵によって強姦される事件まで発生していました。しかし、これらはすべて「占領軍兵士と日本女性との交渉」とされ、報道が禁止されていました。何とも悪辣な検閲です。要するに米軍将兵の性処理については何があっても黙っていろということでした。

 もはやジャーナリズムなど日本には存在しませんでした。報道機関は、単なる連合国の拡声機になりさがりました。しかし、それが戦後日本の報道の実態です。そして、その慣行が占領終了後もなお存続している。その事実を発見し、告発したのが江藤淳です。

 江藤淳の調査によれば、「ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム」の中核をなしたのは「太平洋戦史」という一冊の偽書です。終戦直後の混乱期に、この偽書は十万部も売れたといいますから驚くほかはありません。そして、すべての戦争責任を日本軍に押し付けたこの偽書の内容が手を変え、品を変え、繰り返し報道されつづけることになります。「真相はこうだ」や「真相箱」といったラジオ番組もそうでした。出版業界も映画界も学界も教育界も法曹界も官界も政界も例外ではありませんでした。新しく浮上してきたテレビ業界も例外とはなり得ませんでした。人気ドラマに巧妙に組み込まれる自虐史観、本多勝一などによる偽ノンフィクション作品群、NHK作製のエセ歴史ドキュメンタリー、学校の自虐史観歴史教科書など、すべてが「太平洋戦史」という偽書の内容の繰り返しでしかありません。

 占領軍の検閲が占領終了後もなお効力を発揮しつづけていることに江藤淳は気づき、「閉ざされた言語空間」という作品でその事実を告発しました。被洗脳状態が世代を超えて続いているという日本の惨状を江藤淳は「天下の奇観」と書いています。

 占領軍の検閲がいまなお生きているという事実を認識し、その検閲の呪縛から逃れ、自由な言語空間をとりもどすことこそ江藤淳が目指したものです。その意味で江藤淳は偉大な功績を残したといえるでしょう。

 このほか江藤淳には「落葉の掃き寄せ」や「一九四六憲法 その拘束」といった著書があります。いずれも連合軍の占領政策がどのようなものであったかを告発するものです。このうち「落葉の掃き寄せ」では、吉田満著「戦艦大和の最期」が占領軍によってどのように検閲され、どのように改変させられたかという経過を具体的に検証しています。文筆を業とする者にとってはいたたまれなくなる事実です。それを白日の下に曝したのです。そして、検閲前の原文を掲載し、希有な文学作品への鎮魂を表しています。検閲される前の「戦艦大和の最期」こそ、日本文学史に足跡を残すべき名文でした。それなのに占領軍の検閲によっていびつに改悪させられた文章を戦後の日本人は読まされてきたのです。

 江藤淳著「閉ざされた言語空間」が出版されたのは、奇しくも昭和時代が終わろうとする頃でした。江藤淳が動かぬ証拠によって明らかにしたのは、戦後日本人がいかに無知の状態にさせられてきたかという事実です。わたしたち戦後生まれの日本人はうぬぼれていて、戦前の日本人よりもモノを知っていると思いあがっています。そして、戦争に敗北した戦前の日本人をどこかで侮蔑しています。しかし、これはとんでもない思いあがりであり、傲慢です。いや、これこそが洗脳です。知っているつもりの戦後日本人こそ無知蒙昧なのです。戦前の日本人の方が事実をよりよく知っていました。知っていたというより、その現実の中で生きざるを得なかったのです。そして、占領軍の検閲と公職追放と罰則によって沈黙を強いられていたのです。

 占領軍の「ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム」によって戦後日本人は無知の状態を強いられている。その事実を日本国民に知らせ、蒙を啓き、「無知の知」をもたらそうとしたのが江藤淳です。

 アメリカ軍主導によって推進された「ウォー・ギルト・インフォメイション・プログラム」は、今なお日本のマスコミと歴史学会によって継承されています。昨今では、これに中国共産党が便乗しているかのようです。中国、韓国、北朝鮮による日本悪玉論のプロパガンダが執拗につづけられています。

 江藤淳の告発にもかかわらず、日本の言語空間はあいもかわらず閉ざされたままです。インターネットの普及によっていささか風穴があいたようにも見えますが、多くのタブーが言論界には厳然と存在し続けています。自由で開放的な言語空間からはまだまだほど遠い状況です。


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