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林房雄

挿絵(By みてみん)


 林房雄は明治三十六年(一九〇三)生まれの小説家です。お酒が大好きで豪快な人物だったようです。若い頃は共産主義に傾倒しました。日本共産党の学生部隊に入り、天皇制打倒を叫ぶインターナショナリストになりました。そして、プロレタリア文学を志します。ちょうど日本がソビエト連邦を国家承認した頃であり、成立したばかりの治安維持法違反で検挙され、刑務所に収容されます。

「日本の歴史については何も知らなかった」

 と林房雄は往事を回想しています。入所中は読書三昧の日々を送っていたようで、のちに「刑務所学校」と自嘲気味に書いています。この刑務所学校で林房雄は初めて日本の歴史を読み、心をひかれ、転向して出所します。

 林房雄はプロレタリア作家としての廃業を宣言し、いわゆる中間小説を創作するようになります。戦時中は文学報国会に所属して国策に協力しました。従軍作家として支那事変の戦地を訪問したりもしました。

 そんな林房雄は、戦後、公職追放の憂き目を見ます。職を失った林房雄は食いつなぐために「新夕刊」という新聞社の副社長になりました。このとき直面したのが占領軍の検閲です。事前検閲でした。発刊前に原稿を占領軍が検閲する。検閲にひっかかると新聞紙面のその部分は空白になってしまう。その空白を漫画で埋める。あまりに検閲がきびしかったため新聞「新夕刊」は漫画新聞のようになったとのことです。

 占領期の日本をわがもの顔で闊歩したのは占領軍と共産党員と第三国人でしたが、林房雄は決して卑屈な態度をとりませんでした。

 ある日、林房雄は横浜で一杯引っかけ、帰宅するために横須賀線の列車に乗りました。気持ちよく酔って、ほんのわずかのあいだ居眠りしたとき、スリの被害に遭ってしまいます。犯人は第三国人のスリ集団だったのですが、林房雄は居眠りしていたので犯人がわかりませんでした。ですが、列車は走行中でしたから、犯人はまだ車内にいるはずでした。盗られたのは革製のカバンです。そのなかに原稿料と万年筆と書類が入っています。林房雄は立ち上がり、乗客にスリの被害を大声で訴え、誰か目撃者はいないかと一場の演説をぶちます。すると、乗客のひとりが小声で犯人を教えてくれました。犯人は三人組の第三国人でした。林房雄には、その顔に見覚えがありました。寝落ちる直前まで同じボックスに座っていた男たちでした。林房雄はたったひとりでしたが、アメリカ兵にもらった水兵靴を脱いで手にとり、振りかざして乱闘におよぶこと数分、スリ集団からカバンを取り返しました。カバンに入っていた原稿料がないと飯が食べられなくなるので林房雄は必死だったのです。

 こんな武勇伝もあります。行きつけの社交クラブでのことです。そこはアメリカ軍の将校や最高司令部の高官が訪れる場所でした。そこにGHQ民政局次長として権勢を思うままにふるっていたケーディス大佐がいました。こともあろうに林房雄は、このケーディス大佐と口喧嘩をはじめてしまいます。周囲がひき止めたので大事には至りませんでしたが、はげしい口論となりました。

「おまえは何者だ」

「おれはケーディスだ」

「なに?ケーディス」

「そうだ、ケーディスだ」

「あの追放主任のケーディスか」

「そうだ」

「オレはすでに追放になっている。さすがのおまえでも再追放はできまい。威張るな」

 林房雄は豪傑でした。日本の敗戦を深刻に受け止めて必要以上に悲観的になったり、日本に絶望して日本語を廃止せよと訴えたり、将棋や剣道や漢字を禁止しろと喚いたり、戦勝国に迎合して傀儡化する日本人が多いなかにあって、林房雄はまったく正反対の態度をとりました。

「戦争に負けたことは認める。それを認めることは必要以上に卑屈になることではない。世界の強国どもを相手に最後まで全力をあげて戦ったのだ。その勇戦健闘は世界が認めている。傷は確かに受けた。だが、男の向こう傷ではないか」

 そんな林房雄だったからこそ「大東亜戦争肯定論」を著し得たと言えるでしょう。この本が出版されたのは昭和三十九年(一九六四)です。終戦から二十年ほど経過していましたが、大きな波紋を呼びました。なにしろ占領軍の洗脳工作が圧倒的な効力を発揮していた時代です。なにからなにまで日本が悪かったとする自虐史観の洗脳が最高潮に達していた時期です。そんな頃に大東亜戦争を肯定する論説を発表したのです。尋常ならざる勇気と評すべきでしょう。

 戦後の日本人は、アメリカの太平洋戦争史観、ソビエトの祖国防衛戦争史観、中国共産党の抗日戦争史観を次々と学ばされ、信じ込まされていました。戦争の実情を知る人々は、それら戦勝国の歴史が虚偽であることを百も承知していましたが、多くは沈黙を余儀なくされていました。保身のためには、そうせざるを得ませんでした。たとえ真実を語ったところでだれも耳を傾けてはくれず、むしろうるさがられたり、白眼視されたりするだけだったのです。

 そんな時代に「大東亜戦争肯定論」を出版したのですから、非難を浴びるのは覚悟のうえだったのでしょう。事実、多くの批判と反論に曝されました。しかし、林房雄は自説を曲げず、昭和四十八年に再出版した新訂版の前文に次のように書いています。

「この本はもっと読まれなければならぬ。特に戦後の世代、早くも三十代に近づき、占領教育と左翼史観からの脱却を求めつつある青年諸君は、日本再建のための指針を読み取ってくれることと信じている」

 林房雄が意図したことは、日本人自身による「大東亜戦争」の再考察でした。敗戦後の日本は主権を失い、戦争に関する反省も処分もすべて連合国によってやられてしまいました。憲法さえ、少数のアメリカ人による即席作文でしたから、日本人が主体的に考える機会は奪われたままでした。

 林房雄は、米中ソによって押し付けられた戦勝国史観を必ずしも否定しませんでした。

「アメリカによる、ソ連による、中共による教育はたいへん結構であった。貴重なものに違いない。が、先生の言葉をそのまま鵜呑みにして吐き出す生徒は、必ずしもいい生徒ではない。よくかみしめて、心の栄養にして、自分自身のものを創りだす。これが生徒の心構えだ。先生も喜ぶだろう」

 溜飲の下がる論理展開です。そして、林房雄は独自の歴史観を開陳していくのですが、いきなり歴史を論ずるのではなく、その時代を実際に生きてきたひとりの日本人としての実感を語ります。

「ながいひとつの戦争の途中で生まれ、その戦争のなかを生きてきた」

 これが明治生まれの林房雄の実感でした。この感覚は、同時代人の左翼作家たる五味川純平にも共有されていたようです。五味川は書いています。

「私が属する世代は、呆れるばかりにふんだんな戦争によって、生きている時間を埋めつくされていることになる」

 林房雄の筆鋒は冴えていました。左翼言論人の言葉を巧みに引用し、それを肯定しながら自説を補強するように論理を展開していきます。こう書かれると左翼言論人も反論しにくかったでしょう。あの時代を生きた日本人の実感に立脚しつつ大東亜戦争を肯定する論を進めていきます。

 林房雄のいう「ながいひとつの戦争」とは、幕末から始まって昭和二十年に終わった「百年戦争」という意味です。東漸する西力をいかに防いで対抗するか。これが、幕末から昭和二十年までの日本国の最大の課題でした。尊皇攘夷という標語のとおりに日本を守り抜こうとして日本国民が一丸となっていた時代です。欧米列強の侵略に抗するため日本は富国強兵を実施し、日清戦争と日露戦争を勝ち抜き、第一次大戦の戦勝国となり、極東の一大勢力として一等国にのぼりつめました。しかし、そののちは支那事変に足をとられ、欧米列強に包囲され、アメリカと開戦するに至り、ついに西力に屈服します。屈したからこそ百年戦争が終わったのです。西力に対する日本の抵抗がついに止んだのです。

 林房雄の百年戦争史観はさまざまな批判と嘲笑を受けました。正統史観たる極東裁判史観の左翼学者や左翼評論家からは侮蔑的に罵られました。しかし、歴史の事実に照らしてみれば百戦戦争史観こそ説得的です。

 弘化三年(一八四六)、アメリカ東インド艦隊司令長官ビドル准将が二隻の軍艦を率いて日本の浦賀に現われています。そして、およそ百年後が昭和二十年(一九四五)です。たしかに百年戦争だったのです。

 林房雄は愚劣な反論などには屈せず、自説を貫きます。明治生まれの日本人として生きてきた実感が根っこにあったので、浮ついた屁理屈などどこ吹く風でした。林房雄の百年戦争史観は、日本近代の出来事の因果関係を明確に説明しています。それは複雑怪奇なものではありません。むしろ単純にして明快です。

 二百七十年のあいだ平和に暮らしてきた日本人がなぜ急速に富国強兵へと舵を切ったのか。なぜ戦争を戦い続ける必要があったのか。それは欧米列強によって侵略されないためであり、国家を植民地にされないためであり、家族を奴隷にされないためでした。清国やシャム国やマラヤ国やインド国は欧米列強に侵略され、その国の人々は白人の奴隷にされていました。アジア諸国の悲惨な状況が日本人を戦慄させ覚醒させたのです。誇り高きサムライが奴隷になどなるはずはなかったのです。それ以外、いかなる理由もありません。実に明解な理由です。

 しかしながら正統史観は、日本が戦った理由をその民族性に求めます。それによれば、日本民族は江戸時代には平和に暮らしていたが、明治になると急変して侵略民族となり、独裁国家を建設してアジアを侵略しまくり、敗戦とともにふたたび平和民族に変わったことになります。このようにバカバカしい民族性がありえるでしょうか。そもそも変わらないのが民族性のはずです。この正統史観を認めたら「民族」も「民族性」も言葉としての意味を消失するでしょう。正統史観こそ虚妄に満ちた欺瞞です。戦勝国の「日本悪玉論」は徳川幕府の「三成悪人説」と同類なのです。

 皮肉なことに百年戦争史観の正しさを裏付けてくれたのは、占領期日本の支配者だったマッカーサー将軍です。マッカーサーは、日本の統治者となってはじめて日本の地政学的条件を理解したようです。

「彼ら(日本人)が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

 これは連邦議会上院における発言です。マッカーサーはすでに連合軍最高司令官を解任されていましたから、嘘を吐く理由はなかったでしょう。

「大東亜戦争は百年戦争の終曲だった」

 とする林房雄の史観を補強する傍証は他にもあります。それはセオドア・ルーズベルト大統領の発言です。

「従来、余は日本びいきであったが、ポーツマス講和会議開催以来、日本びいきでなくなった」

 日本に対するアメリカの態度の豹変こそが日米戦争の主因です。日本がアメリカの番犬であった時代が終わり、支那大陸の権益と太平洋の海上覇権をめぐって日米が角逐する時代が到来したのです。少なくともアメリカはそのように認識していました。だからこそアメリカは太平洋艦隊を整備し、パナマ運河を開通させたのです。

 日本や支那大陸への共産主義勢力の浸透を防ぐために日本は満洲国を建国し、支那事変を戦いました。防共の戦いでした。これをアメリカは侵略と決めつけました。この決めつけは日本を敵視していなければ出てこなかったでしょう。容共的だったフランクリン・ルーズベルト政権は対日姿勢を硬化させ、経済制裁を開始し、日米通商航海条約を一方的に廃棄し、ついに在米日本資産を凍結し、石油の禁輸に踏み切り、日米交渉で時間を稼ぎ、ハル・ノートを突きつけて日本を窮鼠にしたのです。

 これに対して日本は、アメリカとの友好をつねに求めつづけていました。幣原喜重郎外相の土下座外交も、アメリカとの友好関係を絶対的に必要とする日本の地政学的条件を考慮に入れれば理解できなくはありません。

 大陸政策を進めたい日本はアメリカとの友好を熱望していました。大陸方面と太平洋方面に敵をつくるのは戦略的愚策だからです。バカでもわかる理屈です。しかし、ルーズベルト大統領がソビエト連邦と連合するにいたって日本の願望はむなしくなりました。

 民主主義国アメリカと共産主義独裁国ソビエトの連合という、日本政府が想像もしなかった驚天動地の米ソ連合こそが日本を死地へと追いやったのです。アメリカは、黄色人種の民主国家よりも白色人種の共産独裁国家を選んだのです。

 帝国陸海軍は起死回生をめざして戦いましたが、そもそも日本の国力はアメリカの二十分の一に過ぎませんでした。開戦一年ほどで早くも日本軍は息切れしはじめました。戦争の後半は焦土戦法と特攻作戦で戦い続けましたが、勝利するのは不可能でした。

 日本を占領した連合国は、大日本帝国の領土を分割し、暴君さながらに君臨しました。占領軍は当然のように検閲、情報統制、焚書などを実施しました。

「占領下の小説、評論の大多数は、当時、読んでも何か信用できず、おもしろくもなかった。というのは、日本人にとって決定的に重要な何かが書きおとされ、空白にされていたからだ」

 と林房雄は書いています。徳川将軍家が「三成悪人説」を流布させたのと同様に、連合軍最高司令部は「軍部悪玉説」を流布させました。欧米白人は、その軍事力と経済力を誇ってはいましたが、三百年前の徳川将軍家と同じことをしていたにすぎません。日本は、三百年分の歴史を連合国によって逆もどしされてしまいました。

 連合国に迎合する御用政治家、御用官僚、御用学者の時代が来ました。戦勝国史観が正統史観になりました。サンフランシスコ講和条約によって占領が終わっても、日本の状況は変わりませんでした。ほかならぬ日本人の手で日本悪玉論が流布されつづけ、政界、官界、法曹界、学界、言論界、教育界、労働界から芸術界にいたるまで、ありとあらゆる社会分野に浸透していきました。

 ナショナリズムの牙は、日本では抜かれましたが、むしろ戦勝国にこそ残りました。その脅威を林房雄は指摘しています。アメリカ、ソ連、中国共産党の脅威と、これら三大国に迎合する日本人によって日本の言論界は四分五裂してしまいました。そんななかで親日派がもっとも微力であると林房雄は嘆いています。

 とはいえ、ほかならぬ林房雄という歴史修正主義者が昭和三十九年という時点に登場したという事実は、日本にとっての光明であるに違いありません。「あったがまま、あるがまま書けばいいのだ」とする林房雄の結論はつぎのとおりです。

「日本の百年にわたる孤軍奮闘は、これを歴史としてふりかえる時、決して無意味ではなかった。無謀とも言えない。西洋列強の植民地主義と侵略主義の重囲の中にあっては、いかなる名将、大政治家といえども他に対策はなかったはずだ。秘密裏ではあったが、当時の政府と軍部の首脳者によって、日支戦争不拡大、対米英戦争回避のあらゆる努力が行われたことは、現在発表されている多くの文献が証明している。だが、罠にかけられ、追いつめられた最後の関頭においては、山本五十六元帥ならずとも玉砕を覚悟の決戦に踏み切らざるを得なかった。百年戦争をみごとに遂行した日本の犠牲者たちを、だれが犬死にと笑うことができるか」


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